Archive for the ‘弁護士勝俣豪の雑感’ Category

ニーチェが流行ってる?

木曜日, 5月 26th, 2011
『超訳 ニーチェの言葉』という本が100万部も売れ,ニーチェが流行っているそうです。

哲学書の類がこんなに売れるとはびっくりです。売り方がうまかったのでしょう。

さて,私も学生の頃はニーチェは好きでした。
特に『善悪の彼岸』という本は,読むと色々と思いついて,思索が進むので,
手元に置いておいて,気が向いたら,適当に開いたところを読んでいました。

今は,昨年読んだドラッカーの『マネジメント』が同じような感じで,4分冊あるので,
色々な部屋に置いてあって,気が向いたら開いたところを読んでいます。

さて,学生の頃にニーチェを読んで,
その後,何年かたって織田信長に興味をもって色々調べていた時期があって
ふと,ニーチェの超人と織田信長はイメージが重なるなあ,なんて思ったことがあります。

現世より来世を優先するような宗教
(ニーチェ→キリスト教,織田信長→一向一揆をはじめとする仏教)に
破壊的で毅然とした態度で,徹底的な現世肯定指向を打ち出すという方向性が
ニーチェが描く超人と,織田信長がしたことに共通性を感じます。

日本でも,戦国期あたりまでは,宗教のために命を賭ける人がたくさんいたようですが
安土桃山期以降,現代に至るまで,どんどん非宗教化していって,
今では,宗教というと,うさんくさいモノの代表のような扱われ方です。
日本では,織田信長の登場により,「神は死んだ」のかもしれません。

打ち出の小槌

木曜日, 5月 19th, 2011
原発事故の賠償問題で,東電だ国だと話が出ています。
当然,適切な賠償はしなければならないでしょう。
でも,東電や国に,莫大な隠し財産がない限り,
それは,電気料金等で東電管内の住人が負担するか,
税金で国民全体が負担するかの問題にすぎないでしょう。
東電管内だけ,やたらに電気料金を高くするわけにもいかないので,
ある程度は国民全体で・・とかそんなさじ加減の議論にせざるを得ないものと思います。

そういう意識がなくて,ケジメをつけさせるとか夢のような正義の味方気分で,
どっかにあるはずの埋蔵金を前提に賠償賠償言っていると,結局,将来に借金のツケをまわすだけでしょう。

こいうことは,それ以外の行政責任追及の訴訟なんかでもよく思います。
役人が無責任で酷い目にあっただなんだと,責任追及する側がまるで正義に味方のようですが,
問題の本質は,その損害が,国民全体の税金で賠償してやるべき程のものなのか,
世の中,思わぬ不幸で酷い目にあう人はいくらでもいるわけで,そういう人に対しても税金を課して
救済する程の問題なのか,という視点が,なんだか軽視されている気がします。

さて,司法改革だ何だで,弁護士になるのにもやたら金がかかるようになりました。
その中で,司法修習生に給料を払うかどうかの問題も,大きな問題になっています。
その場合も,医者は自腹でなるんだ,甘ったれるなとか,
金持ちしか弁護士になれなくなるとか言った議論がなされています。
でも,やはり,なんだかずれています。
政策の問題として考えるとき,弁護士になるコストは誰が負担するんだ?という問いに弁護士自身が負担するという答えは,無意味です。
というのは,コストを自ら負担した弁護士は,弁護士になったあと,そのコストを自らの弁護士費用に転嫁するからです。

問題は,コストを社会全体で負担するのか,実際に紛争に巻き込まれた人が負担するのかです。
弁護士になるコストを弁護士費用に価格転嫁した場合,弁護士費用が高額になりすぎて,
依頼者の負担が過大になると,弁護士への依頼が事実上困難になる。
そうすると,誰でも紛争に巻き込まれる人がいる以上,ある程度社会が負担すべきなのではないか,ということです。
健康保険と同じ構造です。

そこで,コストを社会全体で負担するのか,それとも弁護士を利用することになった依頼者が負担するのかが,
司法修習生の給費を税金でまかなうかどうかの議論の本質となります。

結局,弁護士費用への価格転嫁という当たり前のことに目をつむっているから,わけが分からなくなるわけです。
それは,「価格転嫁は怪しからん!」と言うと気持ちよくなる人や,価格転嫁の話をすると気分が悪くなる人がいるからだと思います。
でも,高いコストを投じたのに,その投資を回収できないのでれば,投資する人はいないなんていうのは,この社会の当たり前の原理です。
そういうことをするのは,一部の酔狂な金持ちか,正義に酔っている奇人変人の類だけでしょう。
弁護士になる人が,どっかに打ち出の小槌を持っているのであれば,価格転嫁は怪しからんということに意味はありますが,そんな小槌はありません。
すくなくとも政策として考える上では,
「世の中には,経済的には明らかに不合理な選択であっても,多額の借金をして弁護士になりたい人が,十分にいる」
という前提が確実でない限りは,価格転嫁は怪しからんという議論はやめた方がよいと思います。

結論としては,

ロースクールや司法修習の給費制を廃止した場合,弁護士費用は高くなる
その高額な弁護士費用を払うだけの,弁護士の仕事の需要がない場合,
弁護士になろうとする人が減る。

どこまで,弁護士になるコストを一旦弁護士に負担させ,どこまで,社会で負担するのが
利用しやすい弁護士費用,弁護士の人数,と財政制約の関係で妥当か,

というのが考えるべきことだと思います。

以上、原発、行政訴訟、司法修習の給費制の問題に共通するのは、
結局は、社会全体なり国民なりが負担することになる費用を、
まるで、だれかが負担してくれて、国民負担がないかのような錯覚を引き起こしていることです。
この手の「うまい話」は、正義と騒ぐ人一流のレトリックにすぎないので、注意して聞く必要があると思われます。

サムライと鉄砲

火曜日, 5月 17th, 2011
日曜日に映画のテレビで映画のラストサムライをやっていたので,
録画しておいて,野球が休みの昨日,途中まで見ました。

日本人は,インディアン扱いなので,アメリカ人のみる日本人とは,
いまだ,そういうものなんだなあ,と思いました。

ところで,この映画では,サムライは,鉄砲のような卑怯なモノは使いたくないとして描かれています。
以前に,大河ドラマの新撰組でも,新撰組の人達が鉄砲大砲の威力に負けて,剣の時代は終わったなんて叫んでいました。

でも,これは歴史認識として,なんだか違和感があります(ただし,私は歴史の専門家ではないので,以下に書くことは,私が間違っているのかも知れません)。

サムライというのは,農民と区別された,職業的な武士だと思うのですが,
その起源は,織田信長による兵農分離です。
それ以前の武士なるものは,普段は農民で,ご恩と奉公として声が掛かれば,武器を持って駆けつけるというものです。

で,織田信長によって,農民から分離された武士は,戦争と戦争訓練に専念できます。

兵農分離されてない場合,村ごとに,若い者10人,馬3匹,槍5本,鉄砲1挺なんて集めて,その集団が村の長を中心に固まって闘うような形になります。
鉄砲ばかり集めて,組織的に運用したりできませんし,集団的に訓練なんてできません。
兵農分離によって,鉄砲の組織的運用が可能になるわけです。

兵農分離は,他にも農閑期以外でも闘えるとか,豊臣秀吉や明智光秀のような優秀な流れ者を指揮官にできる,兵士が死傷をしてもすぐに代えがきくとか色々メリットがあったと思うのですが,鉄砲を組織的に運用するという点でも大きな意味があったと思われます。

当時の鉄砲は,1回の発射に手間がかかるため,組織的に運用してこそ,戦力になる武器です。

そうすると,兵農分離によって,鉄砲ははじめて強力な戦力になったと思われます。

このように,織田信長の兵農分離によって,サムライが生まれ,鉄砲を重要な兵器とする新しい戦争が可能になったわけです。

そして,日本の鉄砲は,信長晩年から江戸初期くらいまで,鉄砲の保有量,生産力,組織的運用力等において,世界最強だったようです。

つまり,世界史的にみれば,サムライというのは16世紀終りから17世紀初めにかけて,先端兵器である鉄砲の組織的な運用に成功し

鉄砲を主力とする新しい戦い方を始めた集団だったと言え,サムライ=剣というより,サムライ=鉄砲のほうが適切なのではないかと思います。

ちなみに,
1533年 スペインにより南米インカ帝国滅亡
1534年 織田信長出生
1543年 鉄砲が種子島に伝来
1565年 スペインがフィリピン征服
1582年 織田信長没
という年表からすると,鉄砲持ったスペイン人やポルトガル人が,世界を駆けめぐっているさなか,
当時の日本人が,驚くべきスピードで新兵器鉄砲を吸収して量産体制を築き,世界随一の鉄砲国家になったことがわかります。
 
明治維新以後や戦後の「追いつけ追い越せ」が強調されますが,戦国末期から安土桃山期の日本にその原点があるのではないかと思います。

ネクタイ(不合理の合理性)

金曜日, 5月 13th, 2011
今年は,震災の影響もあって,クールビズが大いに進みそうです。

でも,そもそもネクタイのように,何の役にも立たないものを

何故付けるのでしょうか?

合理的に考えれば,夏の節電以外にも,朝,余分な時間がかかるし,購入にも余分なコストがかかるし,

ネクタイをつけるという行動に合理性はないように思えます。

でも,多分,この不合理な行動を守らせるということに合理性があるのだと思います。

世の中の常識やルールには不合理なものが沢山あります。

でも,人はそれを暗黙のうちに,守っています。

それを不合理だとかいって破ったり,ケチをつけたりしない人を常識人と言ったりします。

つまり,ネクタイを付けることは,奇抜な行動をしない常識人であるという記号として意味を持ちます。

これは,仮に奇抜な形のネクタイをしていたり,ネクタイが裏返しになっていたりする人がいたら,

「この人は変な人なのではないか?近づかないでおこう」と考えることができるとうことです。

奇抜なネクタイや裏返しのネクタイが趣味にしろ,身だしなみを整える能力がないことによるにしろ,

あまりかかわらない方がよい人物をあぶり出すことができるわけです。

これは,ネクタイに限らず,スーツやワイシャツと一体になった身だしなみ一般がこのような機能を果たします。

激しい寝癖がそのままだったり,やたら汚いスーツだったり,または,ちょっとガラが悪そうだったり,そういう人に目印が付くわけです。

そして,そのためには,守ることに合理性がなく,かつ,普通の人であれば大した手間ではないが,

普通でない人にとっては,逆らってみたくなったり,守るのが困難だったりする,社会的なルールを決めるのが合理的です。

そんなわけで,一見,不合理なネクタイ着用の習慣は,社会的に合理性があるものと思われます。

ですから,クールビズが普及するためには,単に,簡単な格好を普及させるだけでは駄目で,

ネクタイに代わる,ちょっと不合理でちょっと面倒な身だしなみのルールを別に用意する必要があるのではないかと思います。

かな入力の合理性

木曜日, 5月 12th, 2011
パソコンのキーボードの上にはアルファベット以外にひらがなも書いてありますが,

アルファベットを利用したローマ字入力をしている方が大半かと思います。

私も,弁護士登録以前からローマ字入力をしています。

ただ,弁護士登録1,2年目くらいのころ,

「ひとつのひらがなを,ひとおしで入力できる,かな入力の方が合理的なのではないか」

と考え,1年ほど,かな入力をしていました。

というのは,弁護士仕事は文書を書く仕事が多いので,1割でも入力スピードが速くなれば,

今後の弁護士人生において節約できる時間は,かなりの量になるかも,と考えたからです。

初めは,慣れませんでしたが,だんだん慣れてきて,それが普通になりました。

でも,結局,ローマ字入力に戻しました。

あまり入力速度が変わらないことが分かってきたからです。

意外に濁点が多いため,キーを打つ数が変わらないこともありますが,

それでも多少は,キーを打つ数は少ない気がします。

ただ,やはりキーボードを打つのにはリズムがあります。

その結果,

ローマ字入力だと,カタカタカーカタカーカタカタというリズムですが

(あいうえおだと1回なので,カー,それ以外は子音+母音なのでカタ)

かな入力だと,カーカーカタカーカタカーカーカタというリズムになるだけで

(濁音だと二回押さないとならないのでカタ,それ以外はカー)

打つ回数は変われど,ひと文字あたり,カーでもカタでも同じ時間を使うので

多少,カーが多くても,結局スピードは変わらないようなのです。

さらに,ポジションが不合理で,打ち間違う可能性が高いことが判明しました。

不器用なはずの小指の守備範囲がひろいのです。

人差し指のように器用な指の守備範囲が広い分には何とかなりますが,

ピアノやギターの訓練を受けていて小指も器用な人ならともかく,

そうでない私にとっては,小指は適度にミスをしてくれます。

また,諸々の道具を利用する上で,ローマ字入力のみ対応のものがチラホラありましたので,

汎用性の点でも,かな入力を続けることに合理性がないように思えました。

そんなことで,ローマ字入力に戻していますが,より合理的な入力が開発されたら,また挑戦してみようと思います。

 

  

美学とモラル

水曜日, 5月 11th, 2011
震災後の非被災者の,色々な行動の報道をみていて,大学の頃に考えていた,美学と道徳の問題を思い出しました。

自分はこうすべき(例えば「旅行は自粛すべき」)という,考えについて,個人の生き方美学の問題と,道徳(モラル)の問題とは分けて考えることができます。

美学の場合,他人がどうするかは問題となりません。

道徳として語られる場合は,「他人も同じようにすべき」という含意があります。

宗教的な背景がなければ道徳であっても何ら強制力はない

つまり,非道徳的であっても,何ら罰はない。

ので,美学と道徳の問題は区別がつきにくいのです。

ただ,道徳の場合は「他人も同じようにすべき」とする以上,

皆がそのような行動をとった場合にどうなるか

ということは,考えざるを得ません。

そうすると,例えば皆が自粛→経済が縮む→被災者支援もままならない

ということが本当だとすると,自粛という行動は,道徳的にはいかがなものか?という可能性が出てきます。

もちろん,酷い目にあっている人がいるのに,誰も自粛的行動をしないような非人間的な社会は耐えられないという価値判断をすると

やはり自粛は道徳的に正しいということになります。

寄付についても同様です。

サラリーマンは別ですが,事業家は寄付などせずに,その額を事業に投資すれば,

よりおおきな経済活動を生み,寄付金額よりはるかに大きい納税額を生み出す可能性があります。

つまり,「事業家は寄付をすべき」というルールが一般化するより,「事業家は事業に投資すべき」というルールが一般化したほうが

被災者支援に役立つのであれば,後者のルールが道徳的に正しいかもしれない,ということになります。

なんて,まさに書生っぽいことを学生時代は,考えていましたが,

最近は『これから「正義」の話をしよう』なんて本が話題になっていますので,世の中この手の話題に興味がないわけではないようですね。

現実の紛争を扱っている今の仕事に役に立っているのかどうか?は依頼者の方に判断してもらうしかないかも知れません。

 

国産品は本当に優れているのか?

火曜日, 4月 26th, 2011
今回の地震をきっかけに、

日本製の部品が手に入らなくて世界的に影響が出たり

放射能の恐怖で、日本からの輸出物の禁輸や検査があったり

ロボット技術が優れているはずなのに、原発事故であまり活躍していないようだったり

と色々、国産ということを意識する機会がありました。

さて、日本人は舶来モノ好きなんて言われてもいたようですが、いつしか世の中には国産品信仰が蔓延していたようです。

車であれ、家電製品であれ、日本のものは世界的にもっとも優れているような、そんな気分があったような気がします。

でも、それこそが宣伝の効果?

日本のメーカー各社は、直接的なCMや、大手スポンサーに逆らえないマスコミによる間接的な報道によって、

消費者に「日本製品は舶来品より安くて品質もよい」という常識を植えつけてきたのではないか?という気もします。

私自身は、珍しい物好きなので、家電や車、家具、子供用品を含め、海外のものを色々試して使ってみていますが、

なかなかよい物も多く(もちろん、駄目なものもある)、「さすが!」という思いもしています。

他方で、テレビで大々的に宣伝している某国産家電メーカーの某電化製品で、相当程度の不具合を感じています。

すくなくとも、国産品が図抜けてすぐれているということはないという気がします。

いずれにしろ、日本では、商品についての、真っ当な批判・評価をする媒体が『通販生活』くらいしか思い当たりません。

そして、そのような真っ当な批評が育たない大きな理由は、民法刑法の名誉毀損等の解釈にあるような気がします。

軽い気持ちで、製品の悪い点を指摘すると、下手すると法的な問題が生じかねないからです。

そういう意味では法律家の責任も大きいのでしょう。

 
 

SONYのREADER

月曜日, 4月 18th, 2011
昨年に、仕事用のPDF閲覧端末としての利用可能性を求めて、ソニーの電子ブック閲読用端末、リーダーを購入しました。

PDF閲覧端末としては、動作、特に拡大縮小が遅すぎて使い物になりませんでした。

でも、本来の使い道である読書用端末としては、なかなか優れものであることが分かってきました。

まず、なんと言っても、電子ペーパーを利用しているので、パソコンやスマートフォンの類と比べて、

目が疲れません。

紙の本と同じくらい、読んでいられます。

また、山小屋にいたり、自宅にいたりして、ふと本を買いたくなったときに、

パソコンとインターネット環境さえあれば、本を購入できます。

手持ちの本の中に、そのときの気分にあった本がないときに、とても便利です。

また、軽く読んでみたいと思い購入した本が、最近、我が家の狭いスペースを大分占拠していて

このことが、本を買うことを抑制する力になっていました。

でも、電子書籍は、場所をとらないので、気軽に興味がある本を買うことができます。

ただ、購入できる本が、わずかしかないので、

今後、もっと増えていってほしいと思います。

ところで、ソニーには以前PDAで裏切られています。

PalmというOSでソニーはCLIEというとても優れた機種を販売し、

他社のPalm端末を市場から駆逐したとたんに、思うように売れないからと、CLIEも販売中止。

仕事の道具として長く使うことを期待していたのに、ハシゴをはずされた気分になったことがありました。

Readerは、多少、思うようにうれなくても、すぐに撤退せずに、

10年単位くらいの長期的視点で、地道に販売していってほしいと思います。

白熱電球

火曜日, 4月 12th, 2011
環境云々の流れの中で,白熱電球がなくなってしまうそうです。

燃費が悪いし,寿命も短いしということのようです。

でも,本当にそうでしょうか?

自宅のリビングは,調光器のついたスイッチにクリアの白熱電球を付けています。

まず,燃費ですが,白熱電球は調光器を使って暗くできます。

蛍光灯で薄暗いと,なんともひもじい雰囲気ですが,白熱電球で暗めにすると雰囲気がよくなります。

特にクリア球を使うと,ロウソク調,ランプ調,現代調と雰囲気を変えてくれます。

で,本や新聞を読むとき以外は,それなりに暗めにしていますので,コウコウと蛍光灯を付けるのに比べて,本当に電気を食ってるのかな?

と思います。

また,寿命ですが,確かに,クリア(透明)でない白い普通の白熱電球の時は,しょっちゅう,球が切れて,代えていました。

ところが,クリア球に代えたら,よく持ちます。少なくとも白いのに比べて数倍は持っている気がします。

クリアだと,中が見えるのできっちり作り,白いのは中が見えないから耐久性が低いのか,それとも別の理由があるのか分かりませんが,

クリアの白熱電球はよく持ちます。

ですので,同じ明るさで付けた場合で蛍光灯と比べたら燃費で負けるでしょうし,

白い白熱電球の寿命は確かに短いのですが,

調光器を付けて暗めで,クリア白熱電球を使えば,問題ないのでは?と言う気がします。

もちろん,LEDにはかなわないと思いますが。

文献学と弁護士仕事

日曜日, 4月 3rd, 2011
私は、大学時代に文献学の訓練を受けました。

文献学は、昔の文献から色々なことを読み取る学問ですが(歴史だったり、文学だったり)、

私が、訓練を受けた文献学は哲学の文献研究です。

哲学者が残した文書から、行間を読むのは当たり前で、1つの表現から百のことを読みこむような発想をします。

なぜ、あえて、このような単語を用いたのか?

この二つの似た言葉の意味は同じか、別か?

あえて、ここであることに触れないのは、何故か?

とか、ありとあらゆる観点から分析していって、哲学者の真意を読み取ろうとします。

哲学者になりたくって大学に進んだ私としては、

自分の哲学を作るのではなく、誰かさんの哲学の研究者の道へ続く

文献研究は反発を感じました。

でも、作業としてはパズル的に面白い部分もあり、何らかのものは吸収したようです。

その後、めぐりめぐって、弁護士になりましたが、実は、この文献学的な訓練が役立っています。

文献学の発想では、文献実証主義なんて言ったりして、文献に根拠がないことは、何を言っても相手にされないような傾向があり、

そのために、上記のような深い、深ーい読み込みが行われます。

翻って、今の民事裁判。裁判所は書類に残った証拠が中心で、それ以外で何を言ってもなかなか通じにくい現状があります。

そこで、文献学です。書類を徹底的に分析します。

なぜ、あえてこのような文言を用いたのか?

この二つの似た言葉の意味は、同じか、別か?

通常あるはずの文言が、なぜ省かれているのか?

等等、契約書、通帳、決算書等の定型的な文書をはじめ、ありとあらゆる文書を徹底的に分析する習慣がついているようです。

弁護士仕事自体は、色々なことが要求される仕事ではありますが、

もっとも社会から隔絶された営みともいえる、文献研究の訓練が役に立つとは、面白いものです。