Archive for the ‘弁護士勝俣豪の雑感’ Category

裁判はAIに任せるべきか?

土曜日, 4月 25th, 2026

昨年からのAIの進化は目覚ましいものがあります。
特に大量の文章を処理し、内容を理解したのと同等の精度の高いアウトプットを出せる点はすごみがあります。
そう考えると、証拠書類や法律文書など書面が中心の裁判は、AIが最も得意とする領域のひとつかもしれません。将来的にAIが裁判官の役割を担う可能性も、決して絵空事ではなくなってきています。



現状のAIの進化からすると、「そもそも人間とAIは共存できるのか」という部分に強い疑念もあります。今回は、その点はおいておいて、単純に裁判の部分だけを考えてみます。



人間の文章を理解する能力の限界



100字程度の短い文章でさえ、正確に理解できる人は、4人に1人程度という話があります。そうなると、A4用紙1枚ほどの文章をきちんと理解できる人は100人に1人、何千・何万字にもおよぶ裁判文書を読みこなせる人となると、1000人に1人もいないかもしれません。
かつて司法試験が非常に難しかった時代であれば、裁判官に高い文章読解能力を期待できたかもしれません(人格面はさておき)。しかし合格率が大幅に上がった現在、その期待はやや甘いと言わざるを得ません。
さらに、弁護士や当事者がAIを使って文書を作成するようになれば、裁判に提出される文章の量は爆発的に増えることが予想されます。読解能力があったとしても、物理的に読みきれないという状況も十分ありえます。
こうした現状を考えると、人間が裁判を担い続けることへの疑念が、少しずつ生まれてきます。



常識による裁判



現在の裁判は、裁判官の良識や常識に基づいて行われています。一見、とても公平なことのように思えます。
しかし、「常識」とは実に曖昧なものです。たとえば相続をめぐる争いでは、同じ家庭で育った兄弟が「あなたの方が非常識だ」とお互いを罵り合うことは珍しくありません。つまり、ある人の常識は別の人には非常識ということです。
裁判官が常識と信ずるものに基づいて(しかも法的に予測される結論が裁判官の常識に反する場合は常識を優先させて)判決を出すために、現実の裁判の予測可能性は著しく低くなっています。裁判官の転勤による交代で勝ち負けの見通しが180°変わるなんていうのは弁護士にとって日常的な出来事です。率直に言えば、「何を言い出すかわからない」というのが現状です。
もしかすると、この「何が出るかわからない」という神秘性が、世の中の紛争をうまく収める役割を果たしているのかもしれません。しかしそれは、多くの人が裁判に期待しているもの——公平で予測可能な判断——とは、大きくかけ離れているように思います。
人間である裁判官にとって、自分の常識感に反する判決を出すことは苦しいことです。とすると、この部分はむしろAIに優位性があるかもしれません。



経験則の問題



AIには代替しにくい能力のひとつに、「経験則」があります。日常生活の中で自然と身につく、因果関係への感覚です。たとえば車を運転する人なら、「その状況でそんな動きはありえない」と直感的にわかる、あの感覚です。
経験則を重視するなら、人生経験が豊富な人こそ裁判官に向いているはずです。ところが現実の裁判官は、いわば「純粋培養」のキャリアを歩むことが多く、一般社会の感覚から遠ざかりがちです。
わかりやすい例が、車の運転です。多くの国民が普通に行っている「交通の流れに乗った運転」でも、現行の交通ルールや取締り基準のもとでは違反とみなされることがあります。裁判官が違反切符を切られれば、出世に大きく響きかねない。そのため、車の運転自体を避ける裁判官が少なくないのが現状です。
これまでは、長い文章を読みこなせる人材が貴重だったため、経験則の乏しさに目をつむった裁判官採用のあり方にも、一定の合理性はあったと思います。しかしAIの登場は、その前提に大きな疑問を投げかけています。



なり手の問題



最近、冤罪事件で保釈を却下した裁判官を提訴するというニュースがありました。また、裁判官の評判を掲載する口コミサイトが作られたというニュースもありました。どちらも、それ自体でみれば、それなりに意義がありあそうです。
ただ、優秀な人材を裁判官という職業に集めるという観点からは、明らかにマイナスです。
どんな職業でも、優秀な人材を確保するためにはそれなりの待遇や保護が必要です。裁判官も例外ではなく、一定のエリートとしての地位が守られなければ、優秀な人は他の道を選ぶようになります。
その結果として、文章をきちんと読みこなせる裁判官がどんどん減っていく傾向に、歯止めがかからなくなるかもしれません。



以上からすると、人間の裁判官に裁判をさせ続けるべきか、AIに変わってもらうべきかということについては、一概には言い難くなるかもしれません。
でも、現実問題として、AIが裁判官に取って代わるようなことは実際に起きるのでしょうか?



代替されるストーリー例



将来のことはわかりませんが、次のような展開はありうると思います。
まず、正式な訴訟を起こす前の段階で、原告が自分の主張や手持ちの証拠資料をAIに分析させ、勝訴の可能性や判決の予測を出してもらう、という慣行が生まれるとします。さらに被告側も同じAIに自分の主張と資料を提出し、双方の内容を踏まえたAIによる「最終判決案」を受け取る——こうした仕組みが、交渉と正式裁判の中間ステップとして定着することは、十分考えられます。
次に、このAIの判決案に納得できない場合は、本物の裁判に進むことになります。しかし人間の裁判官は、AIの緻密な分析にはなかなか太刀打ちできません。現時点ではAIが劣る部分もあるとしても、5年後・10年後にはその差が逆転している可能性が高い。結果として、裁判官はAIの出した判決案とほぼ同じ結論を出すしかなくなっていきます。
そうなると、「AIの判決案が出た後にわざわざ人間による裁判手続きを踏む」ことは、時間もコストも無駄でしかなくなります。法律の上では人間による裁判が残っていても、現実にはほとんど誰も利用しなくなる——人間の裁判が、事実上消滅してしまうわけです。



現状の文章把握能力を優先した裁判官制度は、能力面で崩壊が予測され、その面でAIに勝てる見込みはほとんどないことになります。もし、あくまで人間でということであれば、民事においても陪審制度的な方向性を取ったほうが良いのかなとは思います。



これもAIに助力を求めると上記の問題点をクリアしたものも作ることができます。
たとえば、民事裁判員に対してAIは適宜わかりやすく要約した双方主張の概要を伝える。裁判員は自らの常識感と経験則に基づいた意見をAIに入力する。それを踏まえた上でAIは原告勝訴判決案と被告勝訴判決案を出力する。どちらを採用するかは裁判員の多数決にする。なんてあたりです。



さてどうなることやらです。正直、裁判官の転勤によってコロコロ心象が変わるような事件はAI判断させても、「どちらとも言えます。勝訴確率は50%ずつです」なんてことになるだけかもなとも思います。

憲法改正:参議院は納税者代表による予算承認へ

金曜日, 2月 27th, 2026

高市内閣が大勝利したことで憲法改正の可能性が出てきました。



憲法改正に政治生命を掛けているのかと思っていた安倍首相が結局手をつけなかったのは不思議でした。公明党がブレーキだったとしたら、今度こそ実現するかもしれません。



実際に憲法改正が通るかどうかは別として、成立過程に様々な疑義がある以上、一旦は国民投票で改正について賛否を問うというのは大切なことだろうと思います。



さて、憲法改正というと9条と自衛隊の問題が前面にでますが、個人的には参議院の役割を変えるべきだと思っています。10年以上前に一度同趣旨で書きましたが、考えが変わってないので再度書こうと思います。



民主主義成立の歴史をざっくり見ると
税金を払っている以上は、(王の)税金の使い方について議決権を持つべき
というのがスタートです。なので、当然、参政権は納税者に限定されるわけです。
それが、徴兵制度もあるということで、男は皆徴兵されるという義務を負うのだから、その義務に対する権利として成人男子全員に参政権が付与されることになるわけです。
さらに、戦争が総力戦になってきて、生産事業に女も駆り出されることになってきて、女にも参政権をということで男女問わず参政権が認められるというのが流れです。



とこrが参政権の拡大とともに福祉国家の流れがでてきます。つまり、国家がどんどん国民の世話をやくようになってきます。大量に税金を集めて、どんどん国民のお金を撒くということになります。また、多くの国で徴兵もなくなっています。
そうなると、納税や徴兵といった国に対する義務の負担に比べて、国からの享受する便益のほうが大きい国民が生まれ、むしろそれが多数派になってきます。



そうなると、民主政成立以前の王様のように、税金を下げろ、国はもっと我々の生活を助けるべきだというような好き勝手な要求が民主主義の名のもとに行われることになります。これが現状だと思います。



現状、こういう民主主義的な要求に対する対抗要因は市場しかありません。市場任せにせず制度として担保するには、参議院を古典的民主主義における納税者代表にして予算承認権を与えるのが上策だろうと思います。



つまり法制度のような国民の平等が問題となる件については普通選挙のもとで選ばれた衆議院で決める。ただし、予算についてはしっかり納税している人の代表者の代表である参議院の承認が必要。
というように役割を定義し直すのは、どうかと思います。



もちろん、参議院の参政権について、何の税金をいくら以上か、納税額による累積投票にするか等、無数の問題はあると思います。でも、完璧なものはできやしないという前提にすれば、そこそこの制度はできるだろうと思います。

安定を求めて

土曜日, 1月 31st, 2026

またも国政選挙です。
様々な意見等ありますが、結局のところ、ある程度の責任感と常識感をもって政権を担当する以上、どこが政権をとっても大きく変わることはないだろうと思います。
別に社会保険の負担が重いことや、物価が上がっていることは、政治が悪いわけではなく社会経済の構造的な問題なわけなので、それに対する常識的な対応は限られています。



その範囲を超えてなにかやろうとしているのが今のアメリカです。第1次トランプ政権では、「大変なことが起こる」と言われながらも、たいしたことは起こりませんでした。つまり、ある程度の責任感と常識感をもって政権を担当すれば、できることは限られます。
その反省から、第2次トランプ政権は従来ではありえないとされた手段を大きくとっているものと思われます。そうでもしないと大きく変わらないからです。



今の日本でそのレベルのことが行われることはなさそうです。



そうなると、あまりリーダーをコロコロ変えてもいいことはない、というところに行き着きそうな気はします。

クマ騒動

金曜日, 10月 31st, 2025

最近は、クマに関するニュースが多くなっています。
昔、登山をしていた頃は、本州にいるツキノワグマはよほどのことがない限り人を襲わないとされていたので、登山中にクマを恐れるということはありませんでした。
ところが、最近は明らかに様相が違ってきています。



先日、登山をしたときも、メインルートから少し外れたコースだったせいか、登山者が我々だけになりました。同行者が「いかにもクマがいそう」等ということで、熊鈴を鳴らしたりして、だいぶビクビクして行動しました。



要因については様々な指摘がなされています。狼が減って猟師も減ってクマが増えたところで、今年はどんぐり凶作。野犬がいなくなった。鹿が増えすぎてクマの餌を食べてしまう・・等色々です。



個人的な思いつきとしては、庭に吠える犬がいなくなったのも影響あるのではないかと思います。クマいとっては犬が繋がれているかどうかは分かりません。ゴソゴソやると犬が吠えだして、他の犬も吠えだすというは、それなりに嫌だった。それが室内犬や吠えない犬ばかりになって、人里に怖いものがなくなったような気もします。



それはそれとして、猟友会頼りでどうこうなる状況ではなくなってきて、国も色々動き出してきて、どうなっていくのか興味深いところです。

外国の世論介入

木曜日, 8月 28th, 2025

戦後80年の8月ということで、少し前まで「なぜ、あの無謀な戦争に」的な報道が目につきました。
まあ、過去の出来事には様々な解釈があり統一見解にいたるのは難しいのでしょうが、戦争をしなければ国民が納得しなかった、という考えもあるようです。
あのとき戦争をしなければ国民の暴動がおき、その支持のもと軍部がクーデター、で結局戦争という流れよりは、マシな選択だったというあたりでしょうか。
「軍部が暴走したのであって国民は悪くない」というのは諸外国と新生日本がやり直すための擬制ともいえるのでしょう。



さて、太平洋戦争については、実はアメリカが望んでいて、うまいこと日本に仕掛けさせたなんて話もあります。仮にそうだとすると、アメリカは、日本で戦争に積極的な世論を形成・助長させたいところです。そして、この方向での世論喚起は諜報活動として比較的容易だったのではないかと思います。



現代の話になります。X(ツイッター)では、こちらの意図に反して政治的意見が流れてきます。そんな中、見覚えるのあるアカウントがロシアのよる諜報活動の一環だったということで閉鎖、なんてことがありました。参議院選挙でも、外国人の問題は色々と争点となっています。



先の戦争でのアメリカの行動の仮説からすると、できることなら、比較的容易な方向で世論介入するのがよいといえます。
と思うと、「MMT理論で日本は税制破綻しないからどんどん減税しろ」とか「財務省が黒幕云々」なんてあたりの投稿がやたらに目についたのも、その手の話かなと思います。



日経新聞の変調

水曜日, 7月 30th, 2025

なんとくなく昔から日経新聞は見ています(今は電子版でみてます)。
日経新聞がよいところは、「可哀想な人を探した出してきてみせびらかす」ような記事がないことです。
やはりこういう記事は、いろいろな面でストレスがかかります。



これが朝日新聞であれば、その手の記事こそメインと言わんばかりに出ています。
また、NHKのテレビニュースも油断していると、すぐその手の話をしだします。
で、まあ大抵の場合、ほぼ共感できずに「どうだかなあ」というイヤな気持ちがあと引きます。



ところが、最近、日経にもこの手の記事がチラホラ目につきます。



朝日の退潮によって、その手のことをしたい人が日経に流れているのか?
日経が経済誌の枠を超えて、何者かにでもなろうとしているのか?
昔からあるのに、私が偏屈になって、気になるようになっただけなのか?



よくわかりませんが、その手のことはできれば、他のところでやっていただきたいです。

AIでどうなる

月曜日, 5月 26th, 2025

ここ半年かそこらでのAIの進化には驚くばかりです。
とりあえず、「様々なことが便利にできる」ということを感じますが、社会全体、特に人間の仕事に対する影響は、すごいことになりそうです。



まずは映画・ドラマ的なもの。AIが作ってくれますので、俳優も映画セットもカメラ担当も何もいりません。正直、日本の映画・ドラマは同じ俳優ばかりでてくるところがウンザリなので、同じ考えをもつ人にとってはAI作成のほうがむしろ好ましいかもしれません。
当面は、シナリオを作る部分は人間の仕事として残るかなと思いますが、AIが人間が作るより魅力的なシナリオを作るのも時間の問題でしょう。



同じくエンターテイメント的なものでいえば、ゲームの作成もほぼAIが作ってくれる段階ですので、ゲーム作成のプログラム、映像作成的な仕事もほとんど不要になるでしょう。



ゲームに限らずプログラム作成の仕事については、全体を管理する人以外はほとんど人ではいらなくなると思われます。このような仕事をしている人はたくさんいると思うのでかなり多くの人の仕事がなくなると思います。



また現在のチャット的な対話能力、音声構成能力からすれば、電話応対・顧客対応をAIがするのも時間の問題と思われます。
結局のところ、デスクワークの大半は、人がやる必要がなくなる、人のする仕事がなくなる、ということなのだろうと思います。



この状況は10年先とかではなく、数年先という可能性もあるのではないかと思います。



運転の類も自動運転という先が見えているし、介護的な仕事もロボットという未来はありますが、この手のことは機械のメンテナンスや運用コスト諸々があるので、人間がやったほうが安いということで、デスクワークに比べると仕事が残る可能性もあるのかなと思います。



そんな状況で世の中がどうなるのか、一部の守られた仕事の人以外は一斉に失業するのか、うまいこと肉体労働的なところをワークシェアしながら、AIに仕事をまかせて、大半の人が1日数時間働けば暮らしていけるような社会になるのか。それとは全く違う展開になるのか。



なんとか動きについていきながら、乗り越えていきたいと思います。

インドの哲学

水曜日, 4月 30th, 2025

なんとなく興味が出てきてインドの古典を読んでいます。



私が大学にいたころ、文学部の哲学系はいくつかの学科(専修課程と呼ばれていたような気もする)に分かれていました。



哲学(西洋哲学をやる)、中国哲学、インド哲学、倫理学(ここは日本と西洋をやる)



哲学といえば西洋の哲学をイメージするので西洋哲学は当然あります。また、日本の伝統からして中国哲学もあるでしょう。
ただインドについては、なんだかマニアックな感じがして、「わざわざ西洋哲学や中国哲学とともに並べるようなものなのかなあ」と思っていました。古代仏教の研究でもしているのだろうか、という感じであまり私も興味がありませんでした。



とはいえ、西洋哲学にふれているとニーチェだったりショーペンハウエルだったりが古代インド哲学に強い影響を受けているなんて話も出てきます。でも、キリスト教文化圏からしたら輪廻転生的な発想は示唆に富むのだろうなという程度の認識でした。



実際に読み出してみて驚くのは、近代以降の大陸系の西洋哲学の関心の類似性です。
インド哲学で強い関心の対象となる本当の自己とでもいうものは、デカルトのコギトやライプニッツのモナドを思わせます。また、そのあたりからスタートして自己以外の世界との関連性を考えていくあたりは現象学やハイデガーあたりの構成を思い出させます。



プラトン・アリストテレスあたりを中心に様々なことを独特の論理構成で分析していった古代ギリシャ哲学、形而上学的なあたりを徹底的に避けながら実学としての完成度を目指した古代中国哲学とは違う、独自の世界です。いまさらながら、インド哲学の学科があったのもうなづける次第です。



山火事

月曜日, 3月 31st, 2025

最近は、国内ニュースでも国際ニュースでも山火事の報道が多くなっているようです。
私も、山小屋があるので人ごとではありません。



異常気象という観点で報道されることも多くあります。
でも、そもそも山火事は自然環境において、起こるべきことです。一定の間隔で山火事が発生することを前提になっています。山火事をきっかけに発芽する種があり、山火事を待っているのです。
ところが山火事は人間にとっては困るので、山火事が発生しないように色々と工夫をします。つまり、山火事を発生しないようにしていることが自然破壊といえます。



多くの自然破壊云々の話は、変化を嫌うことにあります。変化が発生すると、人間に営みにおいて多くの損害が発生してしまうからです。山が燃えれば、せっかく植えた木がだいなしになるし、家も燃えてしまいます。海岸線が変われば、様々なものが海に沈みます。



地球が温暖化すれば、ある場所は使い物にならなくなるが、別のどうにもならない場所が有効活用できるようになります。それでは、前者に利害を持つ人は困るということです。
でも、一度、温暖化が進んだ上で、核融合の実用化成功等で莫大なエネルギーを手に入れて、気候を元に戻すことができるとなったら、それはそれで、変化が生じて困る人が出てくるわけです。



自然現象について、人災という観点が発生しだすと、色々とややこしくなるということだろうと思います。

知略の文化的評価

水曜日, 2月 19th, 2025

海外ドラマの『ヴァイキング 〜海の覇者たち〜』とか『ゲーム・オブ・スローンズ』では戦争シーンが多くあります。でも、日本人の感覚からすると違和感があります。
いわゆる作戦というか知略というものがないのです。
日本的な歴史ドラマの戦闘では、軍の指揮官自体だったり、その横にいる誰かだったりが知略を働かせて、その成否で勝敗が決るという筋書きが通常です。「卑怯者!」というセリフは、基本的に負け犬の遠吠えの位置づけです。



ところが上記のドラマではそういう気配がありません。見張りもいないようで、突然、予想外の大軍がどこからか現れて勝敗が決するという場面も複数ありました。



あまりに原始的で野蛮な感じもして、そんなもんなんだなあ、と思っていました。



ところが、『インド外交の流儀:先行き不透明な世界に向けた戦略』というインドの外交の重鎮がかいた本で思わぬ意見を目にします。中国は、謀略を駆使する卑怯者を英雄視するような文化であって信用ならない、というような内容です。諸葛孔明あたりでしょうか。
多少、意表をつかれた感じです。日本も中国と同じ文化で、知略を駆使する者は英雄です。



今、マヌ法典という古代インドの様々なルールを定めた本を読んでいます。なかなか面白いのですが、王の生き方を示す部分で
「策略を用いずに行動すべし。決して策略を用いてはならない」
「王は、同等、優勢あるいは劣勢(いずれの敵)によってであれ戦いを挑まれたならば、(中略)、戦闘を避けてはならない」
という感じです。策略は用いず、勝てそうもない戦いも戦うべしということのようです。なるほど、こういう文化的背景なのか、という感じです。
基本的には、このように行動すれば、それで死んでしまったとしても来世で良いことがあり、卑怯なマネをすれば来世でひどいことになるということでなりたっているようです。



こういう文化的背景の人が、『真田丸』なんてみると、卑劣な詐欺師をみているようで、不愉快な感じだったりするのかもしれません。