法律家の言う「論理」

6月 10th, 2011
法律家、つまり弁護士とか裁判官とか検事などは、
自分たちが論理を得意とすると思っているようです。

でも、他分野の学問にそれなりに触れた人にとっては、
法律家が論理を理解しているようには思えないと思います。
むしろ、法律学というのは極めて非論理的なものという印象を抱くのではないでしょうか。

私自身も、法律を学び始めた当初は、その中で使われる「論理的」の
意味をつかみ、それに慣れるのに、苦労しました。

法律家の言う論理的というのは、他の学問とは異なり、基本的には
接続詞の使い方を言います。

つまり、「そして」と「しかし」を間違えて使うなということです。
基本的には国語の問題です。

他の学問が基本とする論理においては、通常、「しかし」と「そして」
の意味は、同じです。すなわち「AかつB」を意味します。
論理的には「AしかしB」と「AそしてB」は同じです。
意味が違うのは「A又はB」です。

また、法律家において「よって」は論理的な必然を意味しません。
たとえば、
山田は、Aと言っている。
中村も、Aと言っている。
よって、Aは事実である。
というような文章を書きます。

通常であれば、その前提として、たとえば、
「山田と中村は同時に嘘はつかない」という命題が必要で、
そのような命題を前提としない限り、論理的には「Aは事実である」
という結論は出てこないはずなのですが、法律家は、「よって」
と言います。

他分野の論理の感覚からすれば、「よって」は論理的な必然性を意味するので、
ここで「よって」を使うのには抵抗があり、
山田は、Aと言っている。
中村も、Aと言っている。
だとすると、Aは事実と思われる。
位の文章しかかけないと思います。
でも、法律においては、平気で「よって」を使います。
そうすると、論理における必然性という感覚がない、換言すると
非論理的又は論理的に不誠実な感じに思われます。

さらに、法律で驚いたのは、
「常識に反するような結論が出たら、それは論理の使い方が間違っているからだ 」
という発想があることです。
普通であれば、論理が常識を打ち砕くことに学問や真理探究の魅力があると思います。
でも、法律の論理は常識に従属します。

という具合に、法律家の言う論理的とは、他の学問の感覚からすると極めて非論理的なわけです。
法律家の言う論理的とは整合的、つまり「矛盾がない」という程度の意味しかないにもかかわらず、
通常の論理的、つまり論理必然性があるかのようなニュアンスで話をするから、何か論理を理解していない感じになります。
これは、法律が、
学問的な真理探究が目的ではなく、事案の解決が目的であることや
白か黒か分からない場合に学問的良心に従って「これは 分からない」等と言うことは許されず、
白か黒か決めなければならないという
特殊性があることによります。

でも多くの法律家が自分たちの言う論理が極めて奇抜なものであるという自覚がないまま、
論理をかたっている面があります。
好意的に見えれば、微笑ましいといえますし、意地悪にみれば噴飯モノというところでしょう。

いずれにしろ、法律家の言う論理というものが、他の分野で言う論理とは全く別のもので、
結局のところ、紛争解決のための修辞に過ぎないということは、
法律家と接する人も知っておいたほうがよいのではないかと思います。

 

複数モニタとヘッドフォンセット

6月 9th, 2011
今や,パソコンを中心とした電子機器は,弁護士の業務に欠かせない道具です。
そして,弁護士の仕事は,多分に職人仕事の部分がありますので,
道具の使い方に精通することはとても大事です。

そんなわけで,パソコンが苦手な弁護士は,ノコギリが苦手な大工と同じで,
よほど,他の能力でフォローしないと,なかなかきついと思います。

さらに,道具代をあまりケチるというのも,プロ仕事には適切でなく,
スペックが劣るパソコンを安いからと言って使っていたりとか,
動作に問題が出てきた古いパソコンをいたずらに使い続けることも
仕事の大事な道具であるという観点からすると,いかがなものか?
という気がします。
もちろん,予算の都合もあるし,ある程度使い慣れていることも大事なので
やたらに買替えることが,必ずしも適切なわけではありませんが。

というのがマイタウン法律事務所のパソコンに対する考え方です。

そんなわけで,当事務所の弁護士の目前には複数のPCモニターがあります。
さらに,多くの弁護士は,電話用のヘッドフォンセットを付けて仕事をしたりしています。

一般にイメージする弁護士のデスクとは少し違うかも知れませんが,
合理性を意識し,道具の使い方にこだわる当事務所での執務風景です。

ワラビの季節

6月 6th, 2011
先日,タラの芽のことを書きましたが,
今度は,ワラビの季節です。
あちこちから,芽を出しています。

これを,あく抜きして,おひたしにすると
とてもおいしいです。

ワラビ・ゼンマイの類というと,山菜そばに入っているアレ
が頭に浮かびますが,アレは,正直,何だか分かりません。
まずいとは言いませんが,特にうまいわけでもなく,
なんとなく水っぽく,なんとなくしょっぱい。

アレをもって,ワラビだと思うと,全然違います。
採れたてのワラビは,おひたしとしては,一番うまいのではないか,
という位,繊細な風味があります。

そして,キノコも登場,春のキノコ,アミガサタケも発見しました。

攪乱(かくらん)という言葉があります。
山火事等で,森林が破壊される現象です。
一見自然破壊のようですが,攪乱の後には,それに適した植物が一斉に生えます。
赤松とか,白樺,カラ松なんていうのは,攪乱を待ちかまえている類です。

森を切った跡地からは,ワラビがたくさん生え,タラの木がいっぱい芽吹いています。
キノコも,そういう場所がよくとれます。
人工的な攪乱からも,たくましい森は恵みをもたらします。

ただ,最近は鹿が増えすぎて,皮を食べられて立ち枯れている木も目立ちます。
これも攪乱とみるべきか?よく分かりませんが,何となく,
バランスを失している雰囲気があります。

少子化と3つの常識

6月 2nd, 2011
2010年の合計特殊出生率が1.39と少し上昇したが,依然として厳しい少子化が続いているとのことです。
少子化でもよいかどうかは別として,少子化は次の3つの常識に支えられている気がします。
①一夫多妻制は怪しからん
②結婚は自由恋愛が望ましい
③10代で結婚するのは怪しからん

いずれも,現代日本の基本的な社会常識に思われ,この一つでも否定すると,常識的・道徳的感覚がデリケートな人は,叫びたくなるかもしれませんが,この3つの常識の結果が少子化につながっている気がします。

このうち一夫多妻制は,日本の歴史過程で,一部の支配者を除いて,ほとんどないと思いますが,②と③は比較的最近までは,常識ではなかったものだと思います。

特に,事務所の内外で,女性のキャリア断絶の問題,つまり
大学でて仕事を覚えて,いよいよ社会的に戦力になってから,出産とのジレンマが待ちかまえる。
さらに,出産すると,人生観が大き変わる
という状況に何度も接していると
③の常識は多少修正してもよいのではないかと思わないでもないです。

女性が高等教育を受けるにあたって,必ずしも男と同じルートをたどる必要はなく
10代で出産して,その後,ある程度子育てをしてから,高等教育を受けるというキャリアプラン
もありうるのではないかと思います。
これは「勝手にやれ」というのではなく,それを支援するような社会の仕組み(学費免除や,高校や大学に託児施設を作る等)を作るのもよいのではないかということです。

私は,夫婦とも30代で子育てし始めましたが,体力がいるので,10代か20代前半だと大分違う気がします。
また,10代後半で子供ができれば,40歳では孫ができますので,大分社会が若返りそうな気がします。

弁護士の仕事は「常識をかたる」仕事ですので,非常識な話をするのもどうかとも思いますが,
常識的である限りは少子化は続きますので,今日はいわゆる極論を書いてみました。

偶然は均一ではない

5月 30th, 2011
以前何かで,下記のような話をききました。

サイコロを振ると,確率としては,各目がでる確率は6分の1ずつです。
でも,6回振ると,1から6まで1回ずつでること(つまり均一)は稀で,
3ばかり3回出て,2と5と6は全然でない
(1,3,3,4,1,3とでる場合等)
と言う風に,まばらになるということです。
何百回もやれば,大数の法則により,各目がでる割合はほぼ一緒になるのですが,
数が少ないと,非常に不均衡に目がでるのが普通のことです。

これには「なるほど」と思い,その後も偶然が均一でないことは常に意識しています。

というのは,偶然という言葉のひびきの中に,「偶然である以上,均等に物事がおこる」という錯覚を起こすニュアンスがあるからです。
そこで,上記の例で言うと,3ばかりでてしまうと,偶然ではなく,何か特別な意味があるのではないか,と考えてしまいたくなるわけです。

仮に,良いことも悪いことも,長く見ると,五分五分に起こるとしても,それが偶然であれば,均一に起こるわけではなく,不幸が続く時期が生じます。
そうすると,「最近は悪いことが続くが,何か悪いモノが憑いているのではないか」という気分になります。
そこで「偶然でも均一に起こるわけではない」というより「偶然であるからこそ,均一でないんだ」と言うくらい強く思うようにしています。
そうしないと,どうしても,何か隠された理由があるのではないかという気持ちに振り回されるからです。

以前,ヤクルトの高津選手や石川選手について,長期的に確率の高いピッチングをできる心の強さで大成したようなことを書きました。
これも同じことで,長期的にそこそこ抑えるピッチングスタイルでも,偶然によって打たれる時期が続くことが生じます。
そうすると,「ピッチングフォームを見抜かれているのではないか」「もう自分のスタイルでは通用しないのではないか」という弱い気持ちが生まれるのが人の性です。
でも,そういう気分に負けずに,自分のスタイルを貫けるところが,高津選手や石川選手の素晴らしいところです。

私自身,弁護士仕事にしろ,事務所の運営にしろ,100%成功するような問題ばかりではなく,100%ではない中で,より確率の高い方法を考えざるを得ないことは多々あります。
でも,相対的に高い確率だと信じて始めた方法を実施しても,うまくいかないことが続くこともあります。逆に,予想以上にうまくいってしまうこともあります。
その場合も,それぞれの原因を冷静に分析するとともに,その中でも「偶然は均一ではない」ということも常に忘れないようにしています。

音楽の4つ目の要素

5月 28th, 2011
よく音楽の3要素として、メロディーと、リズムとハーモニーと言ったりします。
でも、本当は4つ目の要素があります。
西洋音楽は、4つ目の要素を切り捨てて、3つにすることで完成度を高めましたが、それによって失われたものがあります。
4つ目の要素は、音の面白さです。
音の面白さとは、変な音やきれいな音、すごい音、びっくりするような音を含む、音そのものが人の気持ちに訴えかける要素です。
たとえば、能管は調子っぱずれの独特の音を出し、尺八は、スワーとかシューとか入る変な音が大事です。
ガムランはハモらないことで生まれるウワーンウワーンといううなりを楽しみます。
銅鑼なんていうのも、基本的には、びっくりという面白さでしょう。
以前、中国で手に入れた横笛は、手で押さえる穴と吹き口の間に、余分な穴があって、
そこに竹のうす側を張って、変な音がでるようになっていました。

という具合に、西洋音楽と別の領域では、音の面白さは、メロディーなんかより大事なことは多いのです。
ただ、変な音、面白い音は、音程の不安定さと裏表ですので、ハーモニーを重視すると、切り捨てざるを得ません。
それで、ハーモニーを重視するクラシック音楽の中では、楽器は音程の安定と引き換えに、音の面白さを捨てていきました。

さて、音の面白さが残るのは、民族音楽だけではありません。
クラッシック音楽以外では、広い意味でのポップス音楽でも、音楽の4つ目の要素は当然、健在です。

ポップス音楽が人気で、クラッシック音楽は一部のマニア以外には退屈極まりないのも、音の面白さの有無が理由だと思います。
人気のポップス音楽からメロディーとリズムとハーモニーだけ取り出して、シンセサイザーに演奏させても、たいていの場合2割程度の魅力しかなくなります。
歌詞がないことはあまり重要ではありません。意味不明で聞いている洋楽だって同じことです。
聞いている人が愛しているのは、特定の歌手の声のトーンや、息遣いの面白さだったりするのです。
ポップスの歌手において、音程が完璧であることよりも、声や歌い方が魅力的であることのほうが大切です。

エレキギターという、決して美しい音ではない楽器が20世紀に地位を確立したのも同じ理由だと思います。
エレキギターは、ゆるい弦が生み出す、独特の音程の自由さや、エフェクター類の利用でひずんだ音等、おもしろい音を出す能力が秀でています。
その結果、現在でも、他の楽器が、音の魅力では7掛けだけどまあ気にならないということでシンセサイザーで代替されてしまうことが多い中で、エレキギターだけは人の手で演奏されます。

そんなわけで、ケーナという不器用な楽器とさんざん悪戦苦闘し、
その後、邦楽洋楽クラシック民族音楽と雑種に色々聞いている中での音楽の印象です。

ニーチェが流行ってる?

5月 26th, 2011
『超訳 ニーチェの言葉』という本が100万部も売れ,ニーチェが流行っているそうです。

哲学書の類がこんなに売れるとはびっくりです。売り方がうまかったのでしょう。

さて,私も学生の頃はニーチェは好きでした。
特に『善悪の彼岸』という本は,読むと色々と思いついて,思索が進むので,
手元に置いておいて,気が向いたら,適当に開いたところを読んでいました。

今は,昨年読んだドラッカーの『マネジメント』が同じような感じで,4分冊あるので,
色々な部屋に置いてあって,気が向いたら開いたところを読んでいます。

さて,学生の頃にニーチェを読んで,
その後,何年かたって織田信長に興味をもって色々調べていた時期があって
ふと,ニーチェの超人と織田信長はイメージが重なるなあ,なんて思ったことがあります。

現世より来世を優先するような宗教
(ニーチェ→キリスト教,織田信長→一向一揆をはじめとする仏教)に
破壊的で毅然とした態度で,徹底的な現世肯定指向を打ち出すという方向性が
ニーチェが描く超人と,織田信長がしたことに共通性を感じます。

日本でも,戦国期あたりまでは,宗教のために命を賭ける人がたくさんいたようですが
安土桃山期以降,現代に至るまで,どんどん非宗教化していって,
今では,宗教というと,うさんくさいモノの代表のような扱われ方です。
日本では,織田信長の登場により,「神は死んだ」のかもしれません。

山菜の季節

5月 24th, 2011
ようやく山菜の季節!

ということで先日、タラの芽を家族で取りに行きました。
それほど、数はとれませんでしたが、マユミの若芽ともども、天ぷらにして食べました。

マユミの若芽は木にいっぱい、ついているし、
ワラビは雑草のように、たくさん生えますので
それほど、希少な感じはありません。

でも、タラの芽は、タラの木からひとつだけです。
一番初めに出てきた、一番上の一番芽をとります。
その後、出てきた二番芽をとると、木が枯れてしまうそうなので、採りません。
弱い木らしく、立ち枯れている木も、多いです。
二番芽も採られてしまった木かもしれません。

そんなわけで、タラの芽を採るときは、
「もうしわけないけど、頂きます」
という気持ちでもらいます。

と言っても、タラの木もさるもの、
全身鋭いトゲだらけですので、手袋なしに気楽に採ろうとすると、
すぐにこちらの手から血がでます。

そんなわけで、感謝の気持ちと
手をトゲでつつかれる多少の痛みとともに
タラの芽は収穫します。

こんなタラの芽ですので、
「食べ残すなんてもってのほか 」
という感じのある食べ物です。

もちろん、とてもおいしかったです。

打ち出の小槌

5月 19th, 2011
原発事故の賠償問題で,東電だ国だと話が出ています。
当然,適切な賠償はしなければならないでしょう。
でも,東電や国に,莫大な隠し財産がない限り,
それは,電気料金等で東電管内の住人が負担するか,
税金で国民全体が負担するかの問題にすぎないでしょう。
東電管内だけ,やたらに電気料金を高くするわけにもいかないので,
ある程度は国民全体で・・とかそんなさじ加減の議論にせざるを得ないものと思います。

そういう意識がなくて,ケジメをつけさせるとか夢のような正義の味方気分で,
どっかにあるはずの埋蔵金を前提に賠償賠償言っていると,結局,将来に借金のツケをまわすだけでしょう。

こいうことは,それ以外の行政責任追及の訴訟なんかでもよく思います。
役人が無責任で酷い目にあっただなんだと,責任追及する側がまるで正義に味方のようですが,
問題の本質は,その損害が,国民全体の税金で賠償してやるべき程のものなのか,
世の中,思わぬ不幸で酷い目にあう人はいくらでもいるわけで,そういう人に対しても税金を課して
救済する程の問題なのか,という視点が,なんだか軽視されている気がします。

さて,司法改革だ何だで,弁護士になるのにもやたら金がかかるようになりました。
その中で,司法修習生に給料を払うかどうかの問題も,大きな問題になっています。
その場合も,医者は自腹でなるんだ,甘ったれるなとか,
金持ちしか弁護士になれなくなるとか言った議論がなされています。
でも,やはり,なんだかずれています。
政策の問題として考えるとき,弁護士になるコストは誰が負担するんだ?という問いに弁護士自身が負担するという答えは,無意味です。
というのは,コストを自ら負担した弁護士は,弁護士になったあと,そのコストを自らの弁護士費用に転嫁するからです。

問題は,コストを社会全体で負担するのか,実際に紛争に巻き込まれた人が負担するのかです。
弁護士になるコストを弁護士費用に価格転嫁した場合,弁護士費用が高額になりすぎて,
依頼者の負担が過大になると,弁護士への依頼が事実上困難になる。
そうすると,誰でも紛争に巻き込まれる人がいる以上,ある程度社会が負担すべきなのではないか,ということです。
健康保険と同じ構造です。

そこで,コストを社会全体で負担するのか,それとも弁護士を利用することになった依頼者が負担するのかが,
司法修習生の給費を税金でまかなうかどうかの議論の本質となります。

結局,弁護士費用への価格転嫁という当たり前のことに目をつむっているから,わけが分からなくなるわけです。
それは,「価格転嫁は怪しからん!」と言うと気持ちよくなる人や,価格転嫁の話をすると気分が悪くなる人がいるからだと思います。
でも,高いコストを投じたのに,その投資を回収できないのでれば,投資する人はいないなんていうのは,この社会の当たり前の原理です。
そういうことをするのは,一部の酔狂な金持ちか,正義に酔っている奇人変人の類だけでしょう。
弁護士になる人が,どっかに打ち出の小槌を持っているのであれば,価格転嫁は怪しからんということに意味はありますが,そんな小槌はありません。
すくなくとも政策として考える上では,
「世の中には,経済的には明らかに不合理な選択であっても,多額の借金をして弁護士になりたい人が,十分にいる」
という前提が確実でない限りは,価格転嫁は怪しからんという議論はやめた方がよいと思います。

結論としては,

ロースクールや司法修習の給費制を廃止した場合,弁護士費用は高くなる
その高額な弁護士費用を払うだけの,弁護士の仕事の需要がない場合,
弁護士になろうとする人が減る。

どこまで,弁護士になるコストを一旦弁護士に負担させ,どこまで,社会で負担するのが
利用しやすい弁護士費用,弁護士の人数,と財政制約の関係で妥当か,

というのが考えるべきことだと思います。

以上、原発、行政訴訟、司法修習の給費制の問題に共通するのは、
結局は、社会全体なり国民なりが負担することになる費用を、
まるで、だれかが負担してくれて、国民負担がないかのような錯覚を引き起こしていることです。
この手の「うまい話」は、正義と騒ぐ人一流のレトリックにすぎないので、注意して聞く必要があると思われます。

サムライと鉄砲

5月 17th, 2011
日曜日に映画のテレビで映画のラストサムライをやっていたので,
録画しておいて,野球が休みの昨日,途中まで見ました。

日本人は,インディアン扱いなので,アメリカ人のみる日本人とは,
いまだ,そういうものなんだなあ,と思いました。

ところで,この映画では,サムライは,鉄砲のような卑怯なモノは使いたくないとして描かれています。
以前に,大河ドラマの新撰組でも,新撰組の人達が鉄砲大砲の威力に負けて,剣の時代は終わったなんて叫んでいました。

でも,これは歴史認識として,なんだか違和感があります(ただし,私は歴史の専門家ではないので,以下に書くことは,私が間違っているのかも知れません)。

サムライというのは,農民と区別された,職業的な武士だと思うのですが,
その起源は,織田信長による兵農分離です。
それ以前の武士なるものは,普段は農民で,ご恩と奉公として声が掛かれば,武器を持って駆けつけるというものです。

で,織田信長によって,農民から分離された武士は,戦争と戦争訓練に専念できます。

兵農分離されてない場合,村ごとに,若い者10人,馬3匹,槍5本,鉄砲1挺なんて集めて,その集団が村の長を中心に固まって闘うような形になります。
鉄砲ばかり集めて,組織的に運用したりできませんし,集団的に訓練なんてできません。
兵農分離によって,鉄砲の組織的運用が可能になるわけです。

兵農分離は,他にも農閑期以外でも闘えるとか,豊臣秀吉や明智光秀のような優秀な流れ者を指揮官にできる,兵士が死傷をしてもすぐに代えがきくとか色々メリットがあったと思うのですが,鉄砲を組織的に運用するという点でも大きな意味があったと思われます。

当時の鉄砲は,1回の発射に手間がかかるため,組織的に運用してこそ,戦力になる武器です。

そうすると,兵農分離によって,鉄砲ははじめて強力な戦力になったと思われます。

このように,織田信長の兵農分離によって,サムライが生まれ,鉄砲を重要な兵器とする新しい戦争が可能になったわけです。

そして,日本の鉄砲は,信長晩年から江戸初期くらいまで,鉄砲の保有量,生産力,組織的運用力等において,世界最強だったようです。

つまり,世界史的にみれば,サムライというのは16世紀終りから17世紀初めにかけて,先端兵器である鉄砲の組織的な運用に成功し

鉄砲を主力とする新しい戦い方を始めた集団だったと言え,サムライ=剣というより,サムライ=鉄砲のほうが適切なのではないかと思います。

ちなみに,
1533年 スペインにより南米インカ帝国滅亡
1534年 織田信長出生
1543年 鉄砲が種子島に伝来
1565年 スペインがフィリピン征服
1582年 織田信長没
という年表からすると,鉄砲持ったスペイン人やポルトガル人が,世界を駆けめぐっているさなか,
当時の日本人が,驚くべきスピードで新兵器鉄砲を吸収して量産体制を築き,世界随一の鉄砲国家になったことがわかります。
 
明治維新以後や戦後の「追いつけ追い越せ」が強調されますが,戦国末期から安土桃山期の日本にその原点があるのではないかと思います。