ロゴスとドクサ(法律家の論理2)

6月 16th, 2011
先日書いた「法律家が言う論理というのは,他の分野から見ると
あまり論理的でない」という話を,今日は衒学的に書いてみます。

論理というのはつまりロジック(Logic)であり,古代ギリシャ語のロゴスです。
で,ギリシャ哲学の中でロゴスと対比されるのが,ドクサで,日本語だと憶見と訳されたりします。
ドクサではなく,ロゴスの追究が大事だと言うことです。

ところで,ドクサは,英語だとOpinionと訳されたりします。
で,法律家の場合は,「これが真理だ」というよりは,「これが私の見解だ」
という話をします。弁護士であれ,裁判官であれ。
つまり,法律家が論理と言って,かたっているのは,Opinionであり,結局,ドクサなのです。
ギリシャ哲学だと,オルトス(=正しいという意味の形容詞)ロゴスの探求という概念があります。
これは誰がそう思うとかいうのではなく,やはり唯一のような真理が前提の話です。
現代の学問も,法律学以外は基本的にはそういうような発想が前提にあります。
つまり,ロゴス=ロジック=論理という中には,唯一の真理探究という含意があります。
法律家の論理にはその含意がないから,非論理的にみえるわけです。

では,オルトス(orthos)なドクサ(doxa)とは何でしょうか?
正解は,オーソドックス(orthodox)です。
つまり,法律家が目指すのはオーソドックスということで,
自分の見解こそがオーソドックスだというのが,法律家の主張ということです。
他の見解もあるかも知れないが,私の主張がもっとも常識的でバランスがとれているという主張です。

大学の教養課程で古代ギリシャ語中級という授業を受けましたが,受講生は私含め2名でした。
そんなわけで,古代ギリシャ語中級の単位を持っている弁護士は滅多にいないと思いますので,
古代ギリシャ語中級単位取得者の書くメタ法律論でした。
(なお,講義はでていましたが,残念ながら自力で古代ギリシャ語を読解できるようにはなりませんでした)

ミューズリー

6月 14th, 2011
普段,朝食はパンを食べますが,暑い時期は
シリアルにします。今年も,シリアルになりました。

シリアルと言っても,コーンフレークではありません。

メインはミューズリーと玄米フレーク,
これに凍ったバナナと牛乳やヨーグルト,
場合によっては100%のジュース
を入れます

凍ったバナナは,夏のシリアルにはお勧めです。
牛乳がぬるくなりません。

さて,ミューズリーですが,これを初めて食べたときは,
人間の食べ物とは思えませんでした。
「飼料!」という言葉が頭に浮かんだほとです。
これを一体どうしたものかと思い,
しばらくはミューズリーというと,
外人が食べるトンデモ食べ物の一種という認識でした。

ところが,家のシリアルがだんだん,種子類(ひまわり,末等)が
増えて滋味あふれる雰囲気になっていく過程で
再び,ミューズリーの登場です。
ヨーグルトあたりとうまく混ぜ合わせると,
「うまい!」という程ではありませんが,
凍ったバナナや玄米フレークとあわさった
全体としては,なかなか,いけます。

さて,食わず嫌いという言葉がありますが,
私はどちらかというと逆です。
食べてみて「まずい!」と思っても,
これをうまいと思う人がいる以上,
うまいと思う方法があるはずだと考えて,
結構しつこく挑戦します。

以前,モスクワでの飛行機乗り換えの際に,
テーブルの上に,パンと,魚の油漬のようなもの
が置いてありました。
パンもバサバサでまずく,魚も油っこくて,食べられたものではありません。
皆,一口食べて,まずいと騒いで,それ以上手を付けません。
私も,はじめはこんなまずい物をよく食べるなと驚いたのですが,
両方同時に食べると,うまいことがわかり,結局,一人で食べ尽くしました。

また,いわゆるパルメザンチーズは,実はすごくおいしいチーズだと
聞いたのですが,ピンと来ませんでした。
でも,固まりのパルメザンチーズを,下品ですが,前歯でガリガリ削りながら食べると
すごくうまいことが分かりました。

うまいものを食べるには,ある程度,執念が必要だろうと思います。

子曰く

6月 13th, 2011
ヤクルトは,いまだ首位を守っています。
好調小川ヤクルトの特徴は,野村野球への回帰です。
現在の,コーチ陣の大半は,野村ヤクルト時代の選手やコーチです。
さらに,最近トレード等で獲得した選手の多くも,阪神や楽天で野村野球を
経験した選手です。

野村監督以降,若松監督時代は野村野球は継承されていましたが,
古田・高田両監督時代に,ほぼ根絶やしになりました。
ただ,野村時代を知る選手コーチの中に,根強く
今の戦力で勝つには野村野球に戻るしかない,という雰囲気があり,
やはり野村野球を尊敬する小川監督の下で,それが復活したようです。

野村監督自体は,個性も強く,実際監督になると色々つらい面もありそうですが
今のヤクルトは,「野村監督はこう言っていた」ということを皆で考えながら,
野球をしているような雰囲気も感じます。
さながら「子曰く」の世界です。

さて,先日,ヤクルトの石川をエースとしてほめる記事がありました
ヤクルトの選手を取り上げてくれるのはうれしいのですが,明らかにヤクルトをよく分からず書いているようです。
100人中99人はヤクルトのエースは石川だと考える?わけはありません。
すくなくとも,現在のヤクルトを知っていれば,エースは石川は館山か,極めて悩ましいというのが正しいところです。

たしかに10年スパンでの活躍は石川が上ですし,館山も石川がエースだと認めています。
でも,ここ3,4年の間,私としては,「館山の日は負けられない」という気持ちです。
石川の日には,そんなことは思いません。相手方の投手・打線次第です。

そして,小川監督も,5/31の試合のコメントで,「館山が投げる試合は何としても勝たないといけない」
と言っています。チーム自体もそういう雰囲気だと思います。
館山は,調子が悪くなければ,相手がダルビッシュであれ杉内であれ,または相手打線が絶好調でも
十分勝てる,または最低限引き分けに持ち込めるだけの信頼感があります。
そして,数年にわたってこれだけの信頼感あるピッチングを続けるピッチャーは,尾花がエースだった頃以降,
ヤクルトにはいなかったのではないかと思います。

そして,今年の交流戦当初のチーム絶不調の中でも,館山の日だけは負けずにすみ,
そのうちチームも盛り返しました。
チーム状態がいかに悪くても,そのときは無失点でしのいでチームを勝利に導き,
チームもその投手が投げるときは絶対に勝つという気持ちでいる。
それがエースのイメージですが,この点ではヤクルトのエースは間違いなく館山です。

館山の現在の力からすると,ヤクルトというよりセリーグのエースでしょう。
確かに,今年だけなら内海の方が上ですし,去年はマエケンの方が上ですが,
ある程度の年数で見たら,館山がナンバーワンだと思われます。

今年の交流戦も,パリーグの圧勝ですが,そのパリーグ相手にほとんど完璧のピッチングを続けています。
現時点での交流戦の投手10傑に入っているのはセリーグでは館山だけ(現在4位)です。
強い?パリーグ打線相手に,パリーグのエースクラス同様の成績を収めています。

そんなわけで,我が家では館山のことを「影のエース」と呼んでいます。

法律家の言う「論理」

6月 10th, 2011
法律家、つまり弁護士とか裁判官とか検事などは、
自分たちが論理を得意とすると思っているようです。

でも、他分野の学問にそれなりに触れた人にとっては、
法律家が論理を理解しているようには思えないと思います。
むしろ、法律学というのは極めて非論理的なものという印象を抱くのではないでしょうか。

私自身も、法律を学び始めた当初は、その中で使われる「論理的」の
意味をつかみ、それに慣れるのに、苦労しました。

法律家の言う論理的というのは、他の学問とは異なり、基本的には
接続詞の使い方を言います。

つまり、「そして」と「しかし」を間違えて使うなということです。
基本的には国語の問題です。

他の学問が基本とする論理においては、通常、「しかし」と「そして」
の意味は、同じです。すなわち「AかつB」を意味します。
論理的には「AしかしB」と「AそしてB」は同じです。
意味が違うのは「A又はB」です。

また、法律家において「よって」は論理的な必然を意味しません。
たとえば、
山田は、Aと言っている。
中村も、Aと言っている。
よって、Aは事実である。
というような文章を書きます。

通常であれば、その前提として、たとえば、
「山田と中村は同時に嘘はつかない」という命題が必要で、
そのような命題を前提としない限り、論理的には「Aは事実である」
という結論は出てこないはずなのですが、法律家は、「よって」
と言います。

他分野の論理の感覚からすれば、「よって」は論理的な必然性を意味するので、
ここで「よって」を使うのには抵抗があり、
山田は、Aと言っている。
中村も、Aと言っている。
だとすると、Aは事実と思われる。
位の文章しかかけないと思います。
でも、法律においては、平気で「よって」を使います。
そうすると、論理における必然性という感覚がない、換言すると
非論理的又は論理的に不誠実な感じに思われます。

さらに、法律で驚いたのは、
「常識に反するような結論が出たら、それは論理の使い方が間違っているからだ 」
という発想があることです。
普通であれば、論理が常識を打ち砕くことに学問や真理探究の魅力があると思います。
でも、法律の論理は常識に従属します。

という具合に、法律家の言う論理的とは、他の学問の感覚からすると極めて非論理的なわけです。
法律家の言う論理的とは整合的、つまり「矛盾がない」という程度の意味しかないにもかかわらず、
通常の論理的、つまり論理必然性があるかのようなニュアンスで話をするから、何か論理を理解していない感じになります。
これは、法律が、
学問的な真理探究が目的ではなく、事案の解決が目的であることや
白か黒か分からない場合に学問的良心に従って「これは 分からない」等と言うことは許されず、
白か黒か決めなければならないという
特殊性があることによります。

でも多くの法律家が自分たちの言う論理が極めて奇抜なものであるという自覚がないまま、
論理をかたっている面があります。
好意的に見えれば、微笑ましいといえますし、意地悪にみれば噴飯モノというところでしょう。

いずれにしろ、法律家の言う論理というものが、他の分野で言う論理とは全く別のもので、
結局のところ、紛争解決のための修辞に過ぎないということは、
法律家と接する人も知っておいたほうがよいのではないかと思います。

 

複数モニタとヘッドフォンセット

6月 9th, 2011
今や,パソコンを中心とした電子機器は,弁護士の業務に欠かせない道具です。
そして,弁護士の仕事は,多分に職人仕事の部分がありますので,
道具の使い方に精通することはとても大事です。

そんなわけで,パソコンが苦手な弁護士は,ノコギリが苦手な大工と同じで,
よほど,他の能力でフォローしないと,なかなかきついと思います。

さらに,道具代をあまりケチるというのも,プロ仕事には適切でなく,
スペックが劣るパソコンを安いからと言って使っていたりとか,
動作に問題が出てきた古いパソコンをいたずらに使い続けることも
仕事の大事な道具であるという観点からすると,いかがなものか?
という気がします。
もちろん,予算の都合もあるし,ある程度使い慣れていることも大事なので
やたらに買替えることが,必ずしも適切なわけではありませんが。

というのがマイタウン法律事務所のパソコンに対する考え方です。

そんなわけで,当事務所の弁護士の目前には複数のPCモニターがあります。
さらに,多くの弁護士は,電話用のヘッドフォンセットを付けて仕事をしたりしています。

一般にイメージする弁護士のデスクとは少し違うかも知れませんが,
合理性を意識し,道具の使い方にこだわる当事務所での執務風景です。

ワラビの季節

6月 6th, 2011
先日,タラの芽のことを書きましたが,
今度は,ワラビの季節です。
あちこちから,芽を出しています。

これを,あく抜きして,おひたしにすると
とてもおいしいです。

ワラビ・ゼンマイの類というと,山菜そばに入っているアレ
が頭に浮かびますが,アレは,正直,何だか分かりません。
まずいとは言いませんが,特にうまいわけでもなく,
なんとなく水っぽく,なんとなくしょっぱい。

アレをもって,ワラビだと思うと,全然違います。
採れたてのワラビは,おひたしとしては,一番うまいのではないか,
という位,繊細な風味があります。

そして,キノコも登場,春のキノコ,アミガサタケも発見しました。

攪乱(かくらん)という言葉があります。
山火事等で,森林が破壊される現象です。
一見自然破壊のようですが,攪乱の後には,それに適した植物が一斉に生えます。
赤松とか,白樺,カラ松なんていうのは,攪乱を待ちかまえている類です。

森を切った跡地からは,ワラビがたくさん生え,タラの木がいっぱい芽吹いています。
キノコも,そういう場所がよくとれます。
人工的な攪乱からも,たくましい森は恵みをもたらします。

ただ,最近は鹿が増えすぎて,皮を食べられて立ち枯れている木も目立ちます。
これも攪乱とみるべきか?よく分かりませんが,何となく,
バランスを失している雰囲気があります。

少子化と3つの常識

6月 2nd, 2011
2010年の合計特殊出生率が1.39と少し上昇したが,依然として厳しい少子化が続いているとのことです。
少子化でもよいかどうかは別として,少子化は次の3つの常識に支えられている気がします。
①一夫多妻制は怪しからん
②結婚は自由恋愛が望ましい
③10代で結婚するのは怪しからん

いずれも,現代日本の基本的な社会常識に思われ,この一つでも否定すると,常識的・道徳的感覚がデリケートな人は,叫びたくなるかもしれませんが,この3つの常識の結果が少子化につながっている気がします。

このうち一夫多妻制は,日本の歴史過程で,一部の支配者を除いて,ほとんどないと思いますが,②と③は比較的最近までは,常識ではなかったものだと思います。

特に,事務所の内外で,女性のキャリア断絶の問題,つまり
大学でて仕事を覚えて,いよいよ社会的に戦力になってから,出産とのジレンマが待ちかまえる。
さらに,出産すると,人生観が大き変わる
という状況に何度も接していると
③の常識は多少修正してもよいのではないかと思わないでもないです。

女性が高等教育を受けるにあたって,必ずしも男と同じルートをたどる必要はなく
10代で出産して,その後,ある程度子育てをしてから,高等教育を受けるというキャリアプラン
もありうるのではないかと思います。
これは「勝手にやれ」というのではなく,それを支援するような社会の仕組み(学費免除や,高校や大学に託児施設を作る等)を作るのもよいのではないかということです。

私は,夫婦とも30代で子育てし始めましたが,体力がいるので,10代か20代前半だと大分違う気がします。
また,10代後半で子供ができれば,40歳では孫ができますので,大分社会が若返りそうな気がします。

弁護士の仕事は「常識をかたる」仕事ですので,非常識な話をするのもどうかとも思いますが,
常識的である限りは少子化は続きますので,今日はいわゆる極論を書いてみました。

偶然は均一ではない

5月 30th, 2011
以前何かで,下記のような話をききました。

サイコロを振ると,確率としては,各目がでる確率は6分の1ずつです。
でも,6回振ると,1から6まで1回ずつでること(つまり均一)は稀で,
3ばかり3回出て,2と5と6は全然でない
(1,3,3,4,1,3とでる場合等)
と言う風に,まばらになるということです。
何百回もやれば,大数の法則により,各目がでる割合はほぼ一緒になるのですが,
数が少ないと,非常に不均衡に目がでるのが普通のことです。

これには「なるほど」と思い,その後も偶然が均一でないことは常に意識しています。

というのは,偶然という言葉のひびきの中に,「偶然である以上,均等に物事がおこる」という錯覚を起こすニュアンスがあるからです。
そこで,上記の例で言うと,3ばかりでてしまうと,偶然ではなく,何か特別な意味があるのではないか,と考えてしまいたくなるわけです。

仮に,良いことも悪いことも,長く見ると,五分五分に起こるとしても,それが偶然であれば,均一に起こるわけではなく,不幸が続く時期が生じます。
そうすると,「最近は悪いことが続くが,何か悪いモノが憑いているのではないか」という気分になります。
そこで「偶然でも均一に起こるわけではない」というより「偶然であるからこそ,均一でないんだ」と言うくらい強く思うようにしています。
そうしないと,どうしても,何か隠された理由があるのではないかという気持ちに振り回されるからです。

以前,ヤクルトの高津選手や石川選手について,長期的に確率の高いピッチングをできる心の強さで大成したようなことを書きました。
これも同じことで,長期的にそこそこ抑えるピッチングスタイルでも,偶然によって打たれる時期が続くことが生じます。
そうすると,「ピッチングフォームを見抜かれているのではないか」「もう自分のスタイルでは通用しないのではないか」という弱い気持ちが生まれるのが人の性です。
でも,そういう気分に負けずに,自分のスタイルを貫けるところが,高津選手や石川選手の素晴らしいところです。

私自身,弁護士仕事にしろ,事務所の運営にしろ,100%成功するような問題ばかりではなく,100%ではない中で,より確率の高い方法を考えざるを得ないことは多々あります。
でも,相対的に高い確率だと信じて始めた方法を実施しても,うまくいかないことが続くこともあります。逆に,予想以上にうまくいってしまうこともあります。
その場合も,それぞれの原因を冷静に分析するとともに,その中でも「偶然は均一ではない」ということも常に忘れないようにしています。

音楽の4つ目の要素

5月 28th, 2011
よく音楽の3要素として、メロディーと、リズムとハーモニーと言ったりします。
でも、本当は4つ目の要素があります。
西洋音楽は、4つ目の要素を切り捨てて、3つにすることで完成度を高めましたが、それによって失われたものがあります。
4つ目の要素は、音の面白さです。
音の面白さとは、変な音やきれいな音、すごい音、びっくりするような音を含む、音そのものが人の気持ちに訴えかける要素です。
たとえば、能管は調子っぱずれの独特の音を出し、尺八は、スワーとかシューとか入る変な音が大事です。
ガムランはハモらないことで生まれるウワーンウワーンといううなりを楽しみます。
銅鑼なんていうのも、基本的には、びっくりという面白さでしょう。
以前、中国で手に入れた横笛は、手で押さえる穴と吹き口の間に、余分な穴があって、
そこに竹のうす側を張って、変な音がでるようになっていました。

という具合に、西洋音楽と別の領域では、音の面白さは、メロディーなんかより大事なことは多いのです。
ただ、変な音、面白い音は、音程の不安定さと裏表ですので、ハーモニーを重視すると、切り捨てざるを得ません。
それで、ハーモニーを重視するクラシック音楽の中では、楽器は音程の安定と引き換えに、音の面白さを捨てていきました。

さて、音の面白さが残るのは、民族音楽だけではありません。
クラッシック音楽以外では、広い意味でのポップス音楽でも、音楽の4つ目の要素は当然、健在です。

ポップス音楽が人気で、クラッシック音楽は一部のマニア以外には退屈極まりないのも、音の面白さの有無が理由だと思います。
人気のポップス音楽からメロディーとリズムとハーモニーだけ取り出して、シンセサイザーに演奏させても、たいていの場合2割程度の魅力しかなくなります。
歌詞がないことはあまり重要ではありません。意味不明で聞いている洋楽だって同じことです。
聞いている人が愛しているのは、特定の歌手の声のトーンや、息遣いの面白さだったりするのです。
ポップスの歌手において、音程が完璧であることよりも、声や歌い方が魅力的であることのほうが大切です。

エレキギターという、決して美しい音ではない楽器が20世紀に地位を確立したのも同じ理由だと思います。
エレキギターは、ゆるい弦が生み出す、独特の音程の自由さや、エフェクター類の利用でひずんだ音等、おもしろい音を出す能力が秀でています。
その結果、現在でも、他の楽器が、音の魅力では7掛けだけどまあ気にならないということでシンセサイザーで代替されてしまうことが多い中で、エレキギターだけは人の手で演奏されます。

そんなわけで、ケーナという不器用な楽器とさんざん悪戦苦闘し、
その後、邦楽洋楽クラシック民族音楽と雑種に色々聞いている中での音楽の印象です。

ニーチェが流行ってる?

5月 26th, 2011
『超訳 ニーチェの言葉』という本が100万部も売れ,ニーチェが流行っているそうです。

哲学書の類がこんなに売れるとはびっくりです。売り方がうまかったのでしょう。

さて,私も学生の頃はニーチェは好きでした。
特に『善悪の彼岸』という本は,読むと色々と思いついて,思索が進むので,
手元に置いておいて,気が向いたら,適当に開いたところを読んでいました。

今は,昨年読んだドラッカーの『マネジメント』が同じような感じで,4分冊あるので,
色々な部屋に置いてあって,気が向いたら開いたところを読んでいます。

さて,学生の頃にニーチェを読んで,
その後,何年かたって織田信長に興味をもって色々調べていた時期があって
ふと,ニーチェの超人と織田信長はイメージが重なるなあ,なんて思ったことがあります。

現世より来世を優先するような宗教
(ニーチェ→キリスト教,織田信長→一向一揆をはじめとする仏教)に
破壊的で毅然とした態度で,徹底的な現世肯定指向を打ち出すという方向性が
ニーチェが描く超人と,織田信長がしたことに共通性を感じます。

日本でも,戦国期あたりまでは,宗教のために命を賭ける人がたくさんいたようですが
安土桃山期以降,現代に至るまで,どんどん非宗教化していって,
今では,宗教というと,うさんくさいモノの代表のような扱われ方です。
日本では,織田信長の登場により,「神は死んだ」のかもしれません。