低迷

7月 12th, 2017
久しぶりにスワローズネタです。

どうにもならないくらい低迷しています。
が,実を言うと一昨年に一瞬優勝したので目がくらんでいますが,その前は2年連続最下位なので,長いこと低迷が続いているというのが正確なところだと思います。
その原因も個人的は明らかだと思っていて,2年連続最下位のあたりで,その原因に思い当たっていたのですが,思わず優勝したので自分の考えが誤っていたのだと思いました。
でも,一瞬の優勝があっただけで,やはり駄目なようです。

で,その原因は監督だとか,投手力だとかそういった問題ではなくて,スタッフ全体の人事政策だと思います。
低迷期開始あたりから,スワローズのコーチや監督はほぼすべて(完全にすべてかも)ヤクルト元選手です。
ヤクルトと無縁でも能力のあるコーチを連れてくる気は全く無いようです。
つまるところ完全に発想が内向きで,これはおそらくコーチ,スカウト,渉外担当,健康管理等のありとあらゆるスタッフがこのような考えをもとに職務に配転されているのだろうと思います。
低迷の表面的な原因の第一は,若い選手が全く育っていないことです。ここ何年かのドラフト1位で戦力になったといえるような選手は2010年の山田哲人以来いません。この年だってクジがあっていたらハンカチ王子が入団して戦力にならなかったと思いますので,その前だと2007年の由規ですので,それ以来10年にわたって戦力になっていないことになります(野手であればレギュラー,先発投手であればせめて1年でも10勝あたりを基準)。つまり,スカウトが全く機能していないのは明らかです。
そして,ドラフト2位以下の選手,特に高卒の選手を丁寧に育て上げる育成能力も全く機能していません。これも,山田中村以来2軍でじっくり育てて一人前になったような選手は出てきていません。概ね,1年目にパッと僅かに活躍仕掛けて,その後見なくなるという状況が何年も続いています。2軍コーチに育成能力がないことは明らかです。
次の原因は,怪我が多すぎること。この原因はよくわかりませんが,少なくとも内輪の論理を優先して,怪我を抜本的になくすためにやらなくてはならない,誰が嫌がる人事が行われていないのだろうと推測されます。

というところで,このあたりに大鉈を振るうようなことをしない限り,監督を高津や宮本や古田にしたところで変わらないだろうと思います。
むしろ,監督を外部から連れてきたほうが,何人かは外様のコーチもはいるだろうから,少しは期待がもてる気がします。

ヤクルトのぬるま湯な人事政策は,私は好ましいと思っています。野球選手とはいえ,ヤクルトに入団した選手は選手をやめてからもそれなりに考えてもらえているようなので,とてもよいと思います。でも,本当を言えば野村ヤクルト時代の選手のように,準レギュラークラスでもコーチとして他球団から引っ張りだこになるような状況こそが理想だろうと思います。
また,素質ある選手がまともな育成もなされず,なんとか育っても怪我をしやすい環境で野球をせざるを得ないというのはどうみてもよくありません。
元ヤクルト選手の生活保障という点では大事にしてほしいのですが,ある程度は野球の現場以外の仕事をしてもらって,野球の現場には波風を立てるが有能な外様をもっと多く入れてほしいと思います。

自動運転技術を信号機に

6月 19th, 2017
車の自動運転について,話題になることが多くなっています。
私も,かなり便利な運転アシストに助けられています。
とはいえ,さらなる発展には色々とデータ収集も必要なようです。

ところで,自動運転にあたっては歩行者等の動きを認識することが必須で,そのセンサーを安くするにはできるだけ量産することが望まれましょう。
であれば,まずは信号機につけてもらいたいものです。

信号機も,少し前までは,押しボタン式にしたり,感応式にしたりと,なんとか無駄な赤信号を防ぐ努力が行われていたようですが,ここ数十年は完全に改善努力をサボっているようです。
強いていえばLED化程度の非本質的な改良程度でしょうか?
未だに,誰も渡らないのに歩行者用信号のために車が赤になったり,全く交差道路に車が来ないのに赤信号を待っていたりということがあります。
このような問題は,自動運転に搭載予定のセンサーを信号機につければ,簡単に解決する問題のはずです。
信号機に必要なレベルの認識すらできないのであれば,車はうごかせません。信号機であれば認識漏れがあっても,赤になる時間が長くなるだけです。その場合には,すぐに苦情がくるでしょうから(その番号もしっかり広報しておけば),センサーの問題の検証にはうってつけでしょう。 ,

政府主導で自動運転を推進するのであれば,政府が関与しやすい信号機についても旗振りをしてもらいたいものです。

 

共謀罪より過失

5月 19th, 2017
共謀罪について,色々と反対意見等があるようです。
実際に大変なことになるかは,私にはわかりません。

ただ,実際に今運用されている法律の中で,それなりにデタラメ感があるのは過失責任という考え方です。
民事上は,過失によって人に損害を与えれば,その損害を賠償することになっています。
刑事上は,過失によって人を傷害するなりすれば,処刑されます(特に,「業務」という意味不明の要件がつく場合は重罪です)

過失というのは「わざとではない」という消極的な要素もあるのですが,過失があったかなかったかについては,次のように考えることとされています。

損害を与えるなりの結果が予測できたかどうか→結果が予測できたのであれば,それを回避するためにどのような注意をするべきだったか→その注意する義務を怠ったら過失あり

ということです。
結局,問題となるのはどのような注意義務があったかということで,これが交通事故の場合であれば,その注意義務の内容は道路交通法に細かく規定されています。

でも,交通事故以外の多くの場合,あとから裁判所が状況を判断して,このような注意義務があったと決めて,遡及的に処罰します。
人間(人間が裁判官をやっている場合は裁判官も)は,起こった出来事については,当然そのような出来事が起こることを予測できた気がしてしまう強いバイアスを持ちます。
で,おそらくこのバイアスは,全精力を傾けても逃れることはできません。結果を知ってしまった後で,結果が生じる前の当時の状況を的確に想像できるようには人間の認識構造はできていません。

たとえば,現状で言うと北朝鮮が日本に核爆弾を落とす可能性がそれなりに高まっていますが,多分大丈夫だろうと思いながら生活しています。
でも,実際,核爆弾を落とされてしまった上で振り返れば,なんであれだけ危機的状況が迫っているのが分かっていながら,避難もせず,「まあ大丈夫だろう」なんて思えたのだろうという気がするわけです。たいてい,過失を問われてしまう人の意識は,そういうものだろうと思います。確かに,今言われてみればそういう危険があることは予見できたけれど,周りの人もそれほど危険を意識した行動もしていないし,そこまで気をつけることとは思わなかったと。
で,爆弾を落とされた後になって,核爆弾を落とされることが予見され,それを回避する(たとえば子どもを連れて国外や爆弾が落とされにくそうな田舎に避難する等)注意義務があったのに,それを怠ったと言われてしまうのが過失責任ということです。

医療過誤で医者が逮捕されたり,認知症の老人が起こしたことの管理責任を問われたり,企業活動上の事故でトップが突然刑事責任を問われたりなんていう「あれ?」というような出来事が起こってしまうのは,過失責任論という人間の認識バイアスや,事後法の禁止という基本的な法理念に反した概念が根拠となっているのだと思われます。

ですから交通事故のように事前に法律によって注意義務が明示されている場合以外は,過失責任については,もっと謙抑的に運用しないとならないと思われます。

時間ケチ

4月 26th, 2017
ケチというと普通は金銭面で支出に(場合によっては過剰に)渋いことです。
私自身は,本来的にはそれほどお金にケチではないと思うのですが,既に10年以上にわたって山あり谷ありで事務所の運営をし,マキャベリの言葉に触れ,ケチであることは自分の職務上の義務として捉えています。
もし,「私自身は,本来的にそれほどケチでない」という部分に事務所内の人が「何言ってんだ!」と思ったら職務としては上々かなと思います。

ところが,時間については,おそらく本来的にとてもケチです。
とにかく,何事であれ無駄な時間がでることがストレスで,とにかく早く終わらせようと思います。その結果,概ねいつも暇です。金があるのにケチというのと同じで,暇なのに時間ケチということです。

今までは,これは自分にとってよい習慣だと思っていました,ドラッカーをはじめ時間の貴重性を説くビジネスの言葉は無数にあります。そして,自信を深めていたのです。

でも最近,お金にケチな人が本来のお金の有用性,お金がもたらす幸福等を味わえないのと同じことになっているのではないか,という気がしてきています。何事につけ,早く終わらせることに注意と興味と楽しみがいって,そのときにしていることそのものの充実感を味わうことがおろそかになっているのではという疑念が生じてきています。

だからといって,お金のケチがそうそう気前良くなったりすることはないし,なったらなったらなったで一気に破綻する危険もあるのと同じで,そうそう考えの習慣を変えるのは難しいと思います。
でも,多少は自分の時間ケチな発想について懐疑的になろうかと思っています。

無会議

4月 18th, 2017
前回に引き続き,よりアクティブな事務所と比べた当事務所の運営上の特徴です。

当事務所では,いわゆる会議というものがほとんどありません。
もちろん「会議ではなく朝礼である」というような準会議もありません。

私が参加しない簡単な会議は年に数回あるかもしれませんが,私を含んだ会議はこの1年1回だけ,昨秋に試験的にやっただけです。
つまり無権力ですがワンマンで独裁体制ともいえます。専制君主は議会を招集する気がないのです。

事務所が6箇所に散らばっていて集まるのが面倒というのもありますが,今はPCさえあればテレビ会議ができ,テレビ会議はさしたる手間もなくできます(そのためのカメラも数年前に購入した配布したこともあります)。なので,会議の必要を感じれば,会議を開くことはできると思いますが,今のところ必要も感じず,要望もありません。

会議を開く理由について考えてみると,1つはやはり方針の徹底です。
私の考えていることは事務所内の掲示板に書きます。皆,読んでくれているはずですが,たまにアレッということもあります。
そうすると会議でも開いて,情報伝達を徹底したくなる誘惑に駆られます。
会議というよりは,面と向かって方針を教育する集会ということです。より効果的にするために,方針に沿った意見を言ってもらうといったことで,情報伝達に対する不備を補いところです。
ただ,面と向かって言っても,そもそも関心がなければ聞かないでしょうし,聞いていても,それが行動にまでなるには会議以外にも様々な過程が必要そうです。そんなことで,方針伝達会議を実施したい誘惑もありますが,集合をかける程の気力が沸かないということかもしれません。

次に諸事項の決定です。
でも新しいアイデアは思いついたら,気分が乗っているうちに即実行がよいと思いますので会議の決済なんて面倒です。
あとは,諸々どうでもよい決定事項です。こういうのは沢山あります。A案とB案のどちらかを選ばなければならない,正直,どっちも一長一短です。こんなものはクジで決めても,じっくり議論しても,先のことはわからない以上,同じことです。こんなものは適当に私が決めてしまって,私が決めたということだけ明示しておけば十分な気がしています。ただ,この手のことも決定のストレスはそれなりにありますので,皆で決めたという形にしたくもなります。

あとは根回し的なところです。やはり重要な事項については,事務所内の意見を聞かずに決めるわけには行きません。
でも意見のない人まで会議に集めるのも無駄な気がします。ということで,所内掲示板で叩き台となる案を出して,意見を募集し,意見がなければ実行,意見があったら修正,撤回ということをしています。もちろん,本当は貴重な意見を持っているけど,掲示板には書いてくれない人もいるかもと思いますが。
さらに,もう少し気持ちを入れる必要がある事項は,関係ありそうな人に個別聴取して決めるということもあります。指名は私のカンなので,皆を会議に集めた上で募集したら隠れた逸材が参加してくれるかもしれません。

強いて会議的なものがあるとすると,私と誰かが話していて,たまたま近くにいたもう一人の意見も聞きたくなって「ちょっといい?」と呼んで3人くらいで話している状況がそうかもしれません。

まあ,そんなところで,迷いつつも会議が開かれていません。
そこそこの規模の事務所で働きたいと思っている人にとって,事務所会議は(好きな人は別として)それなりに面倒な出来事なのではないかと思います。
そのような想定のもと,当事務所は,会議に煩わされずに,本来の弁護士業務に専念できる事務所という側面はあるのではないかと思っています。

また,当事務所の弁護士に電話を頂いた際に,「ただいま打合せ中です」という回答をすることもあります。これも,所内会議ではなく,他の依頼者等との打合せ中ということです。

 

無権力

4月 14th, 2017
昔の話が続き,老化の影に警戒感がつのります。
内容を切り替えます。

ここ半年ほど,当事務所よりはるかに大規模だったり,急成長していたりする弁護士事務所や税理士事務所の代表の話を聞く機会が続いています。
そういう機会があると,当事務所における運営スタイルを客観視することができ,特徴が浮き彫りにされてきます。

そのひとつが,代表である私の権力のなさです。
これは,当事務所の皆が私の言うことを聞かずに好き勝手にしていて,どうにもならない,という話ではなくて,事務所の仕組みやマネジメントスタイルとして,そういうことになっているということです。

色々話を聞く中で人事評価権限が権力の源泉となる(当たり前のことというニュアンスのもと)という話を聞いて,なるほど実感しました。当事務所では,私が何らかの評価をして待遇に反映するという仕組みが弁護士であれ,事務スタッフであれ当事務所には存在しません。
あまり考えていませんでしたが,これは他の事務所とは大きく異なるあり方のようです。

それぞれ容易に予想される一長一短はあり,おそらく当事務所のスタイルでは急成長は難しいかもとも思います。が,まあどちらがよいかというのは人知の及ばないところでしょう。いずれにしろ,当事務所が今のスタイルなのは,私が精神的に虚弱であり評価権限というプレッシャーがきついことや,出来事の評価を人間がなしるうことに懐疑的だという私の性格や考え方に依存するところもあると思います。もちろん,現在のあり方が最善と思っているわけでもないので,仮に評価制度を導入するとしたらどういうものにするかということは,常に考えてもいます。

評価しないのは逃げているだけかなと思うこともありますが,アドビ等の先進的な企業で業績評価を廃止しているトレンドがあるという話もあり(それが当事務所のようなものなのかはわかりませんが),必ずしも不合理ではないようです。
少なくとも,内部的なコミュニケーションについて真意からなのか評価目的なのかということを考えずに済むことや,中傷を聞かずに済むことは,マネジメント業務に専念する上では大きなメリットを感じることができています。

 

春山

4月 13th, 2017
少し前のことですが,雪山訓練をしていた高校生が雪崩の犠牲になりました。
犠牲になった方は気の毒ですが,こういう行事がなくならないことを祈って,昔のことを書きます。

実は,私も高校2年から高校3年にあがる春休みに,県が主催していると思われる春山講習会(つまり雪山での行動訓練。場所は八ヶ岳)に参加しました。
山岳部というのは特殊で,基本的に他校との交流はありません。
そういう中で,唯一,他校の生徒も参加する行事がこの春山講習会でした。
他校が参加するからといって交流を深めたりするわけではないのですが,やはり他校の連中が我々に比べてどうなのか,というのは気になるところなので,強い興味がわく行事です。

さらに,雪山では,アイゼンやピッケル,その他ヤッケとかオーバミトン,スパッツ等の衣類といった特殊道具を使えます。
こういうものを使ってみたいという興味はありますが,自分の学校単独で雪山に行くということはないので,特殊道具を使ってみることができる貴重な機会が春山講習会でした。

実際,何をしたか詳細な記憶はないのですが,横岳(南八ヶ岳のほうの横岳)の山頂で穴を掘って風を防いだこと(これは教わったのではなく,勝手にやってみた),下り坂でグリセードといって靴をスキーのようにすべらせて滑り降りたこと,滑落停止訓練というのをうまくできないと,どこぞの熱心な先生に「死んだー」と叫ばれていた(つまりそのようなやり方では現実の環境では滑落を止めることはできないことの強い表現)こと等はいまも覚えています。

ところが,この手の行事に参加するというのは顧問の先生方にとっては面倒で負担です。
我々の期は,人望ある部長がいたおかげで,顧問が面倒な行事にも色々つきあってくれたのですが,上の代のとき(つまり私が高校1年から2年にあがる春休み)は春山講習会には参加できませんでした。

その代わりに上級生により決行されたのが丹沢登山です。丹沢は我々にとってホームグラウンドのようなところで,大したことはないはずでした。雪山道具を少しでも使えたらという希望もあったようで,特殊用具ももって行きました。この登山は,よく事情は覚えていませんが,顧問はおらず生徒のみで行われました。

ところが,2日目の朝,目が覚めたら,一面銀世界の雪山が待っていました。上の代はともかく,我々は特殊道具の使い方等知りません。
何度となく,滑落(つまり雪のなかで制御不能になって相当距離滑ってしまうこと)がありましたが,上級生の山行継続の意思は強く2日目の幕営(檜洞丸の山頂)が行われます。

翌朝,さらに状況が悪化します。夜間にさらに雪が降り続き,翌朝には十分な雪がまんべんなく積もって道が全くわからなくなります。勝手知ったる東丹沢であれば,カンで進めたかもしれませんが,あまり来たことがない西丹沢ではどうにもなりません。
どうにもならないまま停滞(行動できずにテントで様子見)します。我々のテント(我々の代3名が止まるテントで上級生はいない)は入り口のチャックが壊れていて,風や雪がそれなりに入ってきます。しかも,誰かが気を聞かせて(つまり,どうせすぐ帰ってくるだろうという見通しのもと),本来の指示された量よりも大幅に少ない灯油しか持ってきていませんでした。その結果,寒さを凌ぐために,夜間照明用のろうそくの火をで暖をとりながらシャウトを繰り返す状況でした。
そんな中,別のパーティがあらわれ,下山道に踏み跡をつけていってくれます。雪は降り続いていますので,すぐに行動しないと踏み跡は消えてしまいます。ようやく上級生の英断がなされ,踏み跡と辿って下山がはじまります。途中,踏み跡が消えかけて間違えた方に降りてしまって登り直したり等ありましたが,全員無事で戻ってくることができました。

今となってはよい思い出ですが,遭難すれすれだった気がします。
この出来事のきっかけは,上級生が春山講習会に参加できなかった悔しさだったと思っています。

そんなわけで,やはり春山講習会のような行事は継続したほうが,よいのではないかという気がしています。

信用性

3月 30th, 2017
インターネット社会になって怪情報を信じる人が増えたような話もあります。
でも,情報が乏しい近代以前の時代に人々の心に魑魅魍魎が跋扈していたことは言うまでもありません。
本の時代だって,怪情報はあります。

私は高校1年生のころ,木星人が地球に攻めてくるという本を読みました。おそらく著者は五島勉氏だったのではないかと思います。
その本は,様々な歴史的事実や科学的事実らしきものを根拠に木星人が存在していて,地球に攻めてくるだけの十分な根拠を示していました。
何か変な気もしますが,これだけ根拠があるし,本にもなっているのに嘘ということもあるまい,という気になりました。

今であれば色々インターネットで調べて,その信用性は把握できたと思います。
新聞とテレビとラジオを近所の本屋くらいしか情報源がない時代では,木星人の真偽についてはなかなか把握しにくいものです。

とはいえ,そのような経験を踏んでいたので,本に書いてあることを含めて,あまり物事を鵜呑みにしない習慣はつきました。
おかしな経験というものは,それなりに身になるものです。

走行

2月 18th, 2017
先日,はじめてサーキットを走行してきました。
昨年,極めて原始的なスポーツカーを入手した縁で誘われた次第です。

もともと臆病な上,そもそもスポーツ的な競争心が欠落しているので,レースをしよう等という考えはさらさらありません。
たいてい競技とかスポーツとかは,一定レベル以上は,恐怖なり苦痛なり緊張なりに耐えながら,決められた行動をいかに正確にこなすかという単純行動に帰結する気がします。そのようなことに夢中になるためには,健全なる競争心が必要なわけです。

私の意図は,一切の電子制御のない車を運転するに際して,限界を超えるとどういうことになるのか,公道よりも安全な場所で体験しておくのも一興,ということでした。しかし物事は計画通りにいかないもので,結局のところ臆病さがまさって,十二分に早く減速してしまい,限界を超えるどころか限界近くにもおそらく達することがない状況でその日が終わってしまいました。

現地にたどり着くのに片道2時間かかり,その距離に辟易しました。ところが,ずいぶん遠方から,しかもトラックに車を積んで来ている人が大勢いるようでした。スキーに比べても,はるかに多大なエネルギーを要する趣味のようです。

それでもなかなかおもしろい経験ができたと思います。

本能のままに

1月 31st, 2017
法曹時報という法曹向け(法曹向けの本の中でも最も固めで,一般法曹向けというより勉強熱心な一部の法曹向け)の雑誌があります。

最近68巻11号で,認知症高齢者の電車事故について,家族の賠償責任を否定した最高裁判所の判決についての論考が記載されていました。

上記最高裁に違和感を感じる法曹の根っこには,「被害者は必ず救済されるべし」「被害があるからには誰かが責任を負うべきである」という正義感がある。
筆者が学んだアメリカではこういう発想はなく,原則として被害は被害者が負担するもので例外的にのみ加害者に請求できるという公平感がある。
今後,高齢化社会が進展するにあたって,日本の法曹の正義感は不合理なことになるので,修正するのが相当

といったような内容です。

私自身も,この種の正義感には違和感を感じていたのですが,アメリカから輸入された正義感だとばかり思っていたので,びっくりでした。

嫌なことがあれば,それが事故であれ,病気であれ,不愉快であれ,誰か悪いヤツを探し出して賠償させるというようなことに日本の不法行為法は使われています。そして,賠償範囲の拡大はとどまるところを知りません。
法律が適当で,悪いことをしたやつに賠償させることができる,という程度のことしか書いていないので,悪いことがどんどんひろがっていってしまって,最高裁が必死にとどめているというのが現状です。
弁護士としては,勝てる可能性がある以上,依頼者が求めてきたら賠償請求せざるを得ない(もちろん,当事務所もそうします)ので,この状況を変えるには,適当すぎる法律の条文をも少し具体的なものに変えるしか無いのではないかと思います。

まあ,不愉快な気持ちが生じたら,その原因を探し出し(原因が見つかるまでは落ち着かない。間違ったものにしろ原因を決めれば落ち着く),攻撃可能であれば攻撃を開始するというのは,脳の本能というようなものです。日本の正義感は本能に即したものといえるでしょう。それに油をそそぐか,冷静な判断をするような枠組みをつくるか,そういう問題なのだと思います。