物自体
ここ何年か読む本を探すのに苦労したり、読み始めても途中でやめることが増えてきている気がします。
やめる理由は、つまらなくて時間の無駄だと思うことが大半です。が、理系の本だと途中で頭がついていかなくなって止めることもあります。生物学系だと、読み通せることが多いのですが、物理学系だと断念のことが多いです。文系の本であれば、途中で飽きてきても流して読んでいれば、なんとなく最後までいくのですが、物理学系だとそうもいきません。
そんな中、新たに読む本を無理やりみつけても、つまらなくて我慢して読むか、途中でやめる可能性が高そうなので、少し前に断念した物理学の本をもう一度チャレンジ中です。
論旨としては、量子力学は結局どういうことなのかは誰もわかっていない。ただ決まった計算をすれば有意義な計算結果がでるので、それに満足しているのが実情である。しかし、物理学としては量子力学が示す世界がどういうことなのかを探求すべきである。というようなことです。
つまり、波であり粒子である、とか、観測するかしないかで状況が変わってしまうとか、確率の重ね合わせ状況にあるとか、そういう意味不明の状況を理解するにはどうすればよいか、というあたりのようです。
こういう話だと、もともと哲学系のわたしとしては、やはり客観的な世界というのは、全く理解不能は物自体なんじゃないかという気がします。物自体というのは、カントの認識論の概念です。客観的世界は物自体の世界で、そこには時間も空間も因果関係もない。その意味不明の物自体を、人間は時間とか空間とか因果関係という枠組みを当てはめて理解している。物自体がどういうものかは、全く人間には理解不能で、どのようなものか考えることもできない。というあたりです(うるさい人は「全然違う」とか言いそうですが)。
時間とか空間が客観的世界の問題ではなく、人間の認識形式だという考えは、自分の中ではだいぶ根が張ってきました。
たとえば、物理学が「宇宙は今も膨張している」言っっているのを聞くと、人は「膨張しているその外側は何があるのか?」と考えてしまいます。「ビッグバンから全てが始まった」とか言われても、「ビッグバンより前には何があったのか」と考えてしまいます。
つまり、無限の空間とか無限の時間というのは、物理学が言っているもの科学的なものではなく、人間の認識形式なのだろうと思います。だから、それに反すること、つまり空間の限界や時間の限界を物理学がいうと、何か変なことを言っている、騙されているという気がしてしまうのです。
まあ、世界が本当は得体の知れないもので、人間が思い浮かべている客観的世界は脳が作り出した作品であることは、色は人間の目がつけているもので、客観世界の光は音と同じで高低と大小しかないとうことだけからでも、理屈としては明らかなのでしょう。とはいえ、そういうことを実感として理解することはできないようになっているとも言えます。
とはいえ、人間の認識構造、時間とか空間とか因果関係とか色とか数とか計算式とかは、人間が普通の生活をしている環境を整理して理解するにはちょうどよくできています。単に、ビッグバンとか、宇宙の果てとか生きる上で不要なことは理解できないだけです。
そして量子力学が示す世界も、人間の認識構造の限界を超えていていて、何だかよくわからないのです。
波であり粒子であるものを思い浮かべることができない。つまるところ、人間の空間認識の枠組みでは認識できない何かなのではないか?
観測した場合としなかった場合で状況が変わってしまう。主観的な認識に関わらず存続する客観的な世界というものも、人間が作り出した認識の枠組みなのではないか。
時間が遡っていると解釈するのが自然な現象→不可逆的な時間の流れという人間の認識構造からすると理解できない。
自分も世界もどんどん増えているかも→理解の構造を超えている
ということで、理解はできない。とはいえ、量子力学は、全く意味不明ではあるけれど、計算式を適用することは可能で、技術的には十二分に役に立っている。
これは、理解不能な物自体に時間や空間を当てはめて、実生活を送ることができているという状況とパラレルなのではないかという気がします。
ということで、量子力学の意味不明さは、物自体ということを理解するのに、少し役に立ちそうです。