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意識の役割

土曜日, 6月 5th, 2021

最近の思い付きです。



意識が体が動かすのではなく、体は勝手に動いていて、意識はそれを解説している。
なんていうと、意識は「そうではない」という気分にさせますが、自分の動きを冷静にみていると、やはり体は勝手に動いています。
飯を食っているとき、意識が別のことを考えていたって、淡々とごはんを食べたり肉を食べたりしています。で、聞かれれば、「肉を食べて、口がしょっぱくなったから、ごはんを食べた」なんて、まるで一つ一つ意識して行動していたように説明しますが。実際はそのようなことは後付けのようです。



気になるのは、何故、意識が自ら体を動かしているかのような気になっているのかということです。
思いついたのは、社会的動物としての人間が、他の人間とコミュニケーションを図るための便宜として、意識というものが発生したのではないか、ということです。



たとえば、川に向かって体が動いているとき、他の人間にそれを伝えるために、「自分は川に向かっているようだ」と伝えよりも「自分は川に向かっている」というほうが簡便です。川に向かっている理由としても「のどの渇きを感じているので、おそらく水を飲むためだろう」というより、「水を飲むためだ」と答えたほうが簡便です。つまり、意識が体を動かしているように説明したほうが、コミュニケーションが簡便になります。
その簡便な形態を真にうけて、ぐるぐると動いているのが意識というあたりでしょうか。



そのようなわけで、意識は人と話していないときでも、自分の行動や意図を他人に説明し続けているのではないかという気がします。



宗教というものが要求されるのも、そのような次第かもしれません。神様は、自分を説明する相手として、とても安定的です。



痛みというものも違って見えてきます。よく、痛みを感じるのは、それによって体を休めるため等とも言いますが、体を休めるためには他の手段もありそうです。あえて、意識が痛みを感じるのは、他の人に「痛い、痛い」と言うためなのではないか、という気がしてきました。



ところが、状況によっては、「痛い」ということを伝えないほうがよい場合もあります。そんな風に、意識を正直に伝えないほうがよい場合に備えて、自意識とでもいうものも発達して、意識が感じていることをそのまま、他人に伝えた場合の利害得失を計算するようになっている。



なんてところで、意識についての思い付きによって、多少、物事の見方が変わってもきました。