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裁判の一般化

火曜日, 2月 9th, 2016
認知症の介護者の責任について最高裁判所が判断しそうです。

責任を限定する常識的な判断が望まれます。

以前にも子供のボール遊びを原因とする事故についての親の責任について,下級審による無限定な責任を認める判断が相次いでいた中,最高裁判所は限定する判断をしています。

なぜ,地方裁判所や高等裁判所は,このような「いったいどうしろというんだ」という事案について親や介護者の責任を平気で認めてしまうのでしょうか?

裁判をしていて不思議に思うのは,裁判官の中には「この判断が一般化したら,社会はどのようなことになるのか」という意識がほとんどないということです。
裁判をするというのは,あくまで個別の事案についての妥当な判断をすることであるという意識が強く,裁判の判断内容が法律のように一般化して他の事案にも影響するという意識は希薄です。

実際のところ,最高裁判所の判断以外の,下級審の判断にはいわゆる「判例」とでもいうような先例的価値を認めないのが日本の平均的な裁判官だと思います。ですので,自分の判決も先例として他の事案に一般化されるようなものではない,と考えるのかも知れません。

また,いわゆる法律の勉強においても,司法研修所の勉強においても,自分の判断が一般化したらどのようなことになるか考えろ,というような指導があった記憶はありません。

ということで,子供が遊んでいることによって生じた事故について親の責任を大幅に認めたり,認知症老人が起こした事故について介護者の責任を広く認めたりすると,社会の人々がどれだけ困ることになるのか,なんてことは裁判官はサラサラ考えていないというのが正解なんだろうと思います。この事案では,この人に責任を認めるのが妥当だ。他の事案では,また妥当な結論は異なってもおかしくない,というふうに考えているということです。

ところが最高裁になると,職業裁判官ばかりではなく,行政の出身者等もいて,特定の法規範(法律なり判例なり)を定めた場合の社会的な影響について考える訓練を受けている人もいるし,また最高裁の判断ばかりは下級審の裁判官も極めて尊重しますので,その判断が一般化した場合の社会的影響について考えた上での判断がなされるのだろうと思います。

とはいえ,下級審の裁判所も,もう少しその判断が一般化したらどうなるか,という視点をもってもよいのではないかと思います。