打ち出の小槌
原発事故の賠償問題で,東電だ国だと話が出ています。
当然,適切な賠償はしなければならないでしょう。
でも,東電や国に,莫大な隠し財産がない限り,
それは,電気料金等で東電管内の住人が負担するか,
税金で国民全体が負担するかの問題にすぎないでしょう。
東電管内だけ,やたらに電気料金を高くするわけにもいかないので,
ある程度は国民全体で・・とかそんなさじ加減の議論にせざるを得ないものと思います。
そういう意識がなくて,ケジメをつけさせるとか夢のような正義の味方気分で,
どっかにあるはずの埋蔵金を前提に賠償賠償言っていると,結局,将来に借金のツケをまわすだけでしょう。
こいうことは,それ以外の行政責任追及の訴訟なんかでもよく思います。
役人が無責任で酷い目にあっただなんだと,責任追及する側がまるで正義に味方のようですが,
問題の本質は,その損害が,国民全体の税金で賠償してやるべき程のものなのか,
世の中,思わぬ不幸で酷い目にあう人はいくらでもいるわけで,そういう人に対しても税金を課して
救済する程の問題なのか,という視点が,なんだか軽視されている気がします。
さて,司法改革だ何だで,弁護士になるのにもやたら金がかかるようになりました。
その中で,司法修習生に給料を払うかどうかの問題も,大きな問題になっています。
その場合も,医者は自腹でなるんだ,甘ったれるなとか,
金持ちしか弁護士になれなくなるとか言った議論がなされています。
でも,やはり,なんだかずれています。
政策の問題として考えるとき,弁護士になるコストは誰が負担するんだ?という問いに弁護士自身が負担するという答えは,無意味です。
というのは,コストを自ら負担した弁護士は,弁護士になったあと,そのコストを自らの弁護士費用に転嫁するからです。
問題は,コストを社会全体で負担するのか,実際に紛争に巻き込まれた人が負担するのかです。
弁護士になるコストを弁護士費用に価格転嫁した場合,弁護士費用が高額になりすぎて,
依頼者の負担が過大になると,弁護士への依頼が事実上困難になる。
そうすると,誰でも紛争に巻き込まれる人がいる以上,ある程度社会が負担すべきなのではないか,ということです。
健康保険と同じ構造です。
そこで,コストを社会全体で負担するのか,それとも弁護士を利用することになった依頼者が負担するのかが,
司法修習生の給費を税金でまかなうかどうかの議論の本質となります。
結局,弁護士費用への価格転嫁という当たり前のことに目をつむっているから,わけが分からなくなるわけです。
それは,「価格転嫁は怪しからん!」と言うと気持ちよくなる人や,価格転嫁の話をすると気分が悪くなる人がいるからだと思います。
でも,高いコストを投じたのに,その投資を回収できないのでれば,投資する人はいないなんていうのは,この社会の当たり前の原理です。
そういうことをするのは,一部の酔狂な金持ちか,正義に酔っている奇人変人の類だけでしょう。
弁護士になる人が,どっかに打ち出の小槌を持っているのであれば,価格転嫁は怪しからんということに意味はありますが,そんな小槌はありません。
すくなくとも政策として考える上では,
「世の中には,経済的には明らかに不合理な選択であっても,多額の借金をして弁護士になりたい人が,十分にいる」
という前提が確実でない限りは,価格転嫁は怪しからんという議論はやめた方がよいと思います。
結論としては,
ロースクールや司法修習の給費制を廃止した場合,弁護士費用は高くなる
その高額な弁護士費用を払うだけの,弁護士の仕事の需要がない場合,
弁護士になろうとする人が減る。
どこまで,弁護士になるコストを一旦弁護士に負担させ,どこまで,社会で負担するのが
利用しやすい弁護士費用,弁護士の人数,と財政制約の関係で妥当か,
というのが考えるべきことだと思います。
以上、原発、行政訴訟、司法修習の給費制の問題に共通するのは、
結局は、社会全体なり国民なりが負担することになる費用を、
まるで、だれかが負担してくれて、国民負担がないかのような錯覚を引き起こしていることです。
この手の「うまい話」は、正義と騒ぐ人一流のレトリックにすぎないので、注意して聞く必要があると思われます。
当然,適切な賠償はしなければならないでしょう。
でも,東電や国に,莫大な隠し財産がない限り,
それは,電気料金等で東電管内の住人が負担するか,
税金で国民全体が負担するかの問題にすぎないでしょう。
東電管内だけ,やたらに電気料金を高くするわけにもいかないので,
ある程度は国民全体で・・とかそんなさじ加減の議論にせざるを得ないものと思います。
そういう意識がなくて,ケジメをつけさせるとか夢のような正義の味方気分で,
どっかにあるはずの埋蔵金を前提に賠償賠償言っていると,結局,将来に借金のツケをまわすだけでしょう。
こいうことは,それ以外の行政責任追及の訴訟なんかでもよく思います。
役人が無責任で酷い目にあっただなんだと,責任追及する側がまるで正義に味方のようですが,
問題の本質は,その損害が,国民全体の税金で賠償してやるべき程のものなのか,
世の中,思わぬ不幸で酷い目にあう人はいくらでもいるわけで,そういう人に対しても税金を課して
救済する程の問題なのか,という視点が,なんだか軽視されている気がします。
さて,司法改革だ何だで,弁護士になるのにもやたら金がかかるようになりました。
その中で,司法修習生に給料を払うかどうかの問題も,大きな問題になっています。
その場合も,医者は自腹でなるんだ,甘ったれるなとか,
金持ちしか弁護士になれなくなるとか言った議論がなされています。
でも,やはり,なんだかずれています。
政策の問題として考えるとき,弁護士になるコストは誰が負担するんだ?という問いに弁護士自身が負担するという答えは,無意味です。
というのは,コストを自ら負担した弁護士は,弁護士になったあと,そのコストを自らの弁護士費用に転嫁するからです。
問題は,コストを社会全体で負担するのか,実際に紛争に巻き込まれた人が負担するのかです。
弁護士になるコストを弁護士費用に価格転嫁した場合,弁護士費用が高額になりすぎて,
依頼者の負担が過大になると,弁護士への依頼が事実上困難になる。
そうすると,誰でも紛争に巻き込まれる人がいる以上,ある程度社会が負担すべきなのではないか,ということです。
健康保険と同じ構造です。
そこで,コストを社会全体で負担するのか,それとも弁護士を利用することになった依頼者が負担するのかが,
司法修習生の給費を税金でまかなうかどうかの議論の本質となります。
結局,弁護士費用への価格転嫁という当たり前のことに目をつむっているから,わけが分からなくなるわけです。
それは,「価格転嫁は怪しからん!」と言うと気持ちよくなる人や,価格転嫁の話をすると気分が悪くなる人がいるからだと思います。
でも,高いコストを投じたのに,その投資を回収できないのでれば,投資する人はいないなんていうのは,この社会の当たり前の原理です。
そういうことをするのは,一部の酔狂な金持ちか,正義に酔っている奇人変人の類だけでしょう。
弁護士になる人が,どっかに打ち出の小槌を持っているのであれば,価格転嫁は怪しからんということに意味はありますが,そんな小槌はありません。
すくなくとも政策として考える上では,
「世の中には,経済的には明らかに不合理な選択であっても,多額の借金をして弁護士になりたい人が,十分にいる」
という前提が確実でない限りは,価格転嫁は怪しからんという議論はやめた方がよいと思います。
結論としては,
ロースクールや司法修習の給費制を廃止した場合,弁護士費用は高くなる
その高額な弁護士費用を払うだけの,弁護士の仕事の需要がない場合,
弁護士になろうとする人が減る。
どこまで,弁護士になるコストを一旦弁護士に負担させ,どこまで,社会で負担するのが
利用しやすい弁護士費用,弁護士の人数,と財政制約の関係で妥当か,
というのが考えるべきことだと思います。
以上、原発、行政訴訟、司法修習の給費制の問題に共通するのは、
結局は、社会全体なり国民なりが負担することになる費用を、
まるで、だれかが負担してくれて、国民負担がないかのような錯覚を引き起こしていることです。
この手の「うまい話」は、正義と騒ぐ人一流のレトリックにすぎないので、注意して聞く必要があると思われます。