Archive for 5月, 2011

偶然は均一ではない

月曜日, 5月 30th, 2011
以前何かで,下記のような話をききました。

サイコロを振ると,確率としては,各目がでる確率は6分の1ずつです。
でも,6回振ると,1から6まで1回ずつでること(つまり均一)は稀で,
3ばかり3回出て,2と5と6は全然でない
(1,3,3,4,1,3とでる場合等)
と言う風に,まばらになるということです。
何百回もやれば,大数の法則により,各目がでる割合はほぼ一緒になるのですが,
数が少ないと,非常に不均衡に目がでるのが普通のことです。

これには「なるほど」と思い,その後も偶然が均一でないことは常に意識しています。

というのは,偶然という言葉のひびきの中に,「偶然である以上,均等に物事がおこる」という錯覚を起こすニュアンスがあるからです。
そこで,上記の例で言うと,3ばかりでてしまうと,偶然ではなく,何か特別な意味があるのではないか,と考えてしまいたくなるわけです。

仮に,良いことも悪いことも,長く見ると,五分五分に起こるとしても,それが偶然であれば,均一に起こるわけではなく,不幸が続く時期が生じます。
そうすると,「最近は悪いことが続くが,何か悪いモノが憑いているのではないか」という気分になります。
そこで「偶然でも均一に起こるわけではない」というより「偶然であるからこそ,均一でないんだ」と言うくらい強く思うようにしています。
そうしないと,どうしても,何か隠された理由があるのではないかという気持ちに振り回されるからです。

以前,ヤクルトの高津選手や石川選手について,長期的に確率の高いピッチングをできる心の強さで大成したようなことを書きました。
これも同じことで,長期的にそこそこ抑えるピッチングスタイルでも,偶然によって打たれる時期が続くことが生じます。
そうすると,「ピッチングフォームを見抜かれているのではないか」「もう自分のスタイルでは通用しないのではないか」という弱い気持ちが生まれるのが人の性です。
でも,そういう気分に負けずに,自分のスタイルを貫けるところが,高津選手や石川選手の素晴らしいところです。

私自身,弁護士仕事にしろ,事務所の運営にしろ,100%成功するような問題ばかりではなく,100%ではない中で,より確率の高い方法を考えざるを得ないことは多々あります。
でも,相対的に高い確率だと信じて始めた方法を実施しても,うまくいかないことが続くこともあります。逆に,予想以上にうまくいってしまうこともあります。
その場合も,それぞれの原因を冷静に分析するとともに,その中でも「偶然は均一ではない」ということも常に忘れないようにしています。

音楽の4つ目の要素

土曜日, 5月 28th, 2011
よく音楽の3要素として、メロディーと、リズムとハーモニーと言ったりします。
でも、本当は4つ目の要素があります。
西洋音楽は、4つ目の要素を切り捨てて、3つにすることで完成度を高めましたが、それによって失われたものがあります。
4つ目の要素は、音の面白さです。
音の面白さとは、変な音やきれいな音、すごい音、びっくりするような音を含む、音そのものが人の気持ちに訴えかける要素です。
たとえば、能管は調子っぱずれの独特の音を出し、尺八は、スワーとかシューとか入る変な音が大事です。
ガムランはハモらないことで生まれるウワーンウワーンといううなりを楽しみます。
銅鑼なんていうのも、基本的には、びっくりという面白さでしょう。
以前、中国で手に入れた横笛は、手で押さえる穴と吹き口の間に、余分な穴があって、
そこに竹のうす側を張って、変な音がでるようになっていました。

という具合に、西洋音楽と別の領域では、音の面白さは、メロディーなんかより大事なことは多いのです。
ただ、変な音、面白い音は、音程の不安定さと裏表ですので、ハーモニーを重視すると、切り捨てざるを得ません。
それで、ハーモニーを重視するクラシック音楽の中では、楽器は音程の安定と引き換えに、音の面白さを捨てていきました。

さて、音の面白さが残るのは、民族音楽だけではありません。
クラッシック音楽以外では、広い意味でのポップス音楽でも、音楽の4つ目の要素は当然、健在です。

ポップス音楽が人気で、クラッシック音楽は一部のマニア以外には退屈極まりないのも、音の面白さの有無が理由だと思います。
人気のポップス音楽からメロディーとリズムとハーモニーだけ取り出して、シンセサイザーに演奏させても、たいていの場合2割程度の魅力しかなくなります。
歌詞がないことはあまり重要ではありません。意味不明で聞いている洋楽だって同じことです。
聞いている人が愛しているのは、特定の歌手の声のトーンや、息遣いの面白さだったりするのです。
ポップスの歌手において、音程が完璧であることよりも、声や歌い方が魅力的であることのほうが大切です。

エレキギターという、決して美しい音ではない楽器が20世紀に地位を確立したのも同じ理由だと思います。
エレキギターは、ゆるい弦が生み出す、独特の音程の自由さや、エフェクター類の利用でひずんだ音等、おもしろい音を出す能力が秀でています。
その結果、現在でも、他の楽器が、音の魅力では7掛けだけどまあ気にならないということでシンセサイザーで代替されてしまうことが多い中で、エレキギターだけは人の手で演奏されます。

そんなわけで、ケーナという不器用な楽器とさんざん悪戦苦闘し、
その後、邦楽洋楽クラシック民族音楽と雑種に色々聞いている中での音楽の印象です。

ニーチェが流行ってる?

木曜日, 5月 26th, 2011
『超訳 ニーチェの言葉』という本が100万部も売れ,ニーチェが流行っているそうです。

哲学書の類がこんなに売れるとはびっくりです。売り方がうまかったのでしょう。

さて,私も学生の頃はニーチェは好きでした。
特に『善悪の彼岸』という本は,読むと色々と思いついて,思索が進むので,
手元に置いておいて,気が向いたら,適当に開いたところを読んでいました。

今は,昨年読んだドラッカーの『マネジメント』が同じような感じで,4分冊あるので,
色々な部屋に置いてあって,気が向いたら開いたところを読んでいます。

さて,学生の頃にニーチェを読んで,
その後,何年かたって織田信長に興味をもって色々調べていた時期があって
ふと,ニーチェの超人と織田信長はイメージが重なるなあ,なんて思ったことがあります。

現世より来世を優先するような宗教
(ニーチェ→キリスト教,織田信長→一向一揆をはじめとする仏教)に
破壊的で毅然とした態度で,徹底的な現世肯定指向を打ち出すという方向性が
ニーチェが描く超人と,織田信長がしたことに共通性を感じます。

日本でも,戦国期あたりまでは,宗教のために命を賭ける人がたくさんいたようですが
安土桃山期以降,現代に至るまで,どんどん非宗教化していって,
今では,宗教というと,うさんくさいモノの代表のような扱われ方です。
日本では,織田信長の登場により,「神は死んだ」のかもしれません。

山菜の季節

火曜日, 5月 24th, 2011
ようやく山菜の季節!

ということで先日、タラの芽を家族で取りに行きました。
それほど、数はとれませんでしたが、マユミの若芽ともども、天ぷらにして食べました。

マユミの若芽は木にいっぱい、ついているし、
ワラビは雑草のように、たくさん生えますので
それほど、希少な感じはありません。

でも、タラの芽は、タラの木からひとつだけです。
一番初めに出てきた、一番上の一番芽をとります。
その後、出てきた二番芽をとると、木が枯れてしまうそうなので、採りません。
弱い木らしく、立ち枯れている木も、多いです。
二番芽も採られてしまった木かもしれません。

そんなわけで、タラの芽を採るときは、
「もうしわけないけど、頂きます」
という気持ちでもらいます。

と言っても、タラの木もさるもの、
全身鋭いトゲだらけですので、手袋なしに気楽に採ろうとすると、
すぐにこちらの手から血がでます。

そんなわけで、感謝の気持ちと
手をトゲでつつかれる多少の痛みとともに
タラの芽は収穫します。

こんなタラの芽ですので、
「食べ残すなんてもってのほか 」
という感じのある食べ物です。

もちろん、とてもおいしかったです。

打ち出の小槌

木曜日, 5月 19th, 2011
原発事故の賠償問題で,東電だ国だと話が出ています。
当然,適切な賠償はしなければならないでしょう。
でも,東電や国に,莫大な隠し財産がない限り,
それは,電気料金等で東電管内の住人が負担するか,
税金で国民全体が負担するかの問題にすぎないでしょう。
東電管内だけ,やたらに電気料金を高くするわけにもいかないので,
ある程度は国民全体で・・とかそんなさじ加減の議論にせざるを得ないものと思います。

そういう意識がなくて,ケジメをつけさせるとか夢のような正義の味方気分で,
どっかにあるはずの埋蔵金を前提に賠償賠償言っていると,結局,将来に借金のツケをまわすだけでしょう。

こいうことは,それ以外の行政責任追及の訴訟なんかでもよく思います。
役人が無責任で酷い目にあっただなんだと,責任追及する側がまるで正義に味方のようですが,
問題の本質は,その損害が,国民全体の税金で賠償してやるべき程のものなのか,
世の中,思わぬ不幸で酷い目にあう人はいくらでもいるわけで,そういう人に対しても税金を課して
救済する程の問題なのか,という視点が,なんだか軽視されている気がします。

さて,司法改革だ何だで,弁護士になるのにもやたら金がかかるようになりました。
その中で,司法修習生に給料を払うかどうかの問題も,大きな問題になっています。
その場合も,医者は自腹でなるんだ,甘ったれるなとか,
金持ちしか弁護士になれなくなるとか言った議論がなされています。
でも,やはり,なんだかずれています。
政策の問題として考えるとき,弁護士になるコストは誰が負担するんだ?という問いに弁護士自身が負担するという答えは,無意味です。
というのは,コストを自ら負担した弁護士は,弁護士になったあと,そのコストを自らの弁護士費用に転嫁するからです。

問題は,コストを社会全体で負担するのか,実際に紛争に巻き込まれた人が負担するのかです。
弁護士になるコストを弁護士費用に価格転嫁した場合,弁護士費用が高額になりすぎて,
依頼者の負担が過大になると,弁護士への依頼が事実上困難になる。
そうすると,誰でも紛争に巻き込まれる人がいる以上,ある程度社会が負担すべきなのではないか,ということです。
健康保険と同じ構造です。

そこで,コストを社会全体で負担するのか,それとも弁護士を利用することになった依頼者が負担するのかが,
司法修習生の給費を税金でまかなうかどうかの議論の本質となります。

結局,弁護士費用への価格転嫁という当たり前のことに目をつむっているから,わけが分からなくなるわけです。
それは,「価格転嫁は怪しからん!」と言うと気持ちよくなる人や,価格転嫁の話をすると気分が悪くなる人がいるからだと思います。
でも,高いコストを投じたのに,その投資を回収できないのでれば,投資する人はいないなんていうのは,この社会の当たり前の原理です。
そういうことをするのは,一部の酔狂な金持ちか,正義に酔っている奇人変人の類だけでしょう。
弁護士になる人が,どっかに打ち出の小槌を持っているのであれば,価格転嫁は怪しからんということに意味はありますが,そんな小槌はありません。
すくなくとも政策として考える上では,
「世の中には,経済的には明らかに不合理な選択であっても,多額の借金をして弁護士になりたい人が,十分にいる」
という前提が確実でない限りは,価格転嫁は怪しからんという議論はやめた方がよいと思います。

結論としては,

ロースクールや司法修習の給費制を廃止した場合,弁護士費用は高くなる
その高額な弁護士費用を払うだけの,弁護士の仕事の需要がない場合,
弁護士になろうとする人が減る。

どこまで,弁護士になるコストを一旦弁護士に負担させ,どこまで,社会で負担するのが
利用しやすい弁護士費用,弁護士の人数,と財政制約の関係で妥当か,

というのが考えるべきことだと思います。

以上、原発、行政訴訟、司法修習の給費制の問題に共通するのは、
結局は、社会全体なり国民なりが負担することになる費用を、
まるで、だれかが負担してくれて、国民負担がないかのような錯覚を引き起こしていることです。
この手の「うまい話」は、正義と騒ぐ人一流のレトリックにすぎないので、注意して聞く必要があると思われます。

サムライと鉄砲

火曜日, 5月 17th, 2011
日曜日に映画のテレビで映画のラストサムライをやっていたので,
録画しておいて,野球が休みの昨日,途中まで見ました。

日本人は,インディアン扱いなので,アメリカ人のみる日本人とは,
いまだ,そういうものなんだなあ,と思いました。

ところで,この映画では,サムライは,鉄砲のような卑怯なモノは使いたくないとして描かれています。
以前に,大河ドラマの新撰組でも,新撰組の人達が鉄砲大砲の威力に負けて,剣の時代は終わったなんて叫んでいました。

でも,これは歴史認識として,なんだか違和感があります(ただし,私は歴史の専門家ではないので,以下に書くことは,私が間違っているのかも知れません)。

サムライというのは,農民と区別された,職業的な武士だと思うのですが,
その起源は,織田信長による兵農分離です。
それ以前の武士なるものは,普段は農民で,ご恩と奉公として声が掛かれば,武器を持って駆けつけるというものです。

で,織田信長によって,農民から分離された武士は,戦争と戦争訓練に専念できます。

兵農分離されてない場合,村ごとに,若い者10人,馬3匹,槍5本,鉄砲1挺なんて集めて,その集団が村の長を中心に固まって闘うような形になります。
鉄砲ばかり集めて,組織的に運用したりできませんし,集団的に訓練なんてできません。
兵農分離によって,鉄砲の組織的運用が可能になるわけです。

兵農分離は,他にも農閑期以外でも闘えるとか,豊臣秀吉や明智光秀のような優秀な流れ者を指揮官にできる,兵士が死傷をしてもすぐに代えがきくとか色々メリットがあったと思うのですが,鉄砲を組織的に運用するという点でも大きな意味があったと思われます。

当時の鉄砲は,1回の発射に手間がかかるため,組織的に運用してこそ,戦力になる武器です。

そうすると,兵農分離によって,鉄砲ははじめて強力な戦力になったと思われます。

このように,織田信長の兵農分離によって,サムライが生まれ,鉄砲を重要な兵器とする新しい戦争が可能になったわけです。

そして,日本の鉄砲は,信長晩年から江戸初期くらいまで,鉄砲の保有量,生産力,組織的運用力等において,世界最強だったようです。

つまり,世界史的にみれば,サムライというのは16世紀終りから17世紀初めにかけて,先端兵器である鉄砲の組織的な運用に成功し

鉄砲を主力とする新しい戦い方を始めた集団だったと言え,サムライ=剣というより,サムライ=鉄砲のほうが適切なのではないかと思います。

ちなみに,
1533年 スペインにより南米インカ帝国滅亡
1534年 織田信長出生
1543年 鉄砲が種子島に伝来
1565年 スペインがフィリピン征服
1582年 織田信長没
という年表からすると,鉄砲持ったスペイン人やポルトガル人が,世界を駆けめぐっているさなか,
当時の日本人が,驚くべきスピードで新兵器鉄砲を吸収して量産体制を築き,世界随一の鉄砲国家になったことがわかります。
 
明治維新以後や戦後の「追いつけ追い越せ」が強調されますが,戦国末期から安土桃山期の日本にその原点があるのではないかと思います。

ホンモノの値段

月曜日, 5月 16th, 2011
スーパーで,醤油とか,カマボコとか,ハム等の

いわゆる加工食品の値段をみていると,本当に差があります。

数倍程度の差はざらです。

一見,安いモノが標準的な普通のモノで,

高いものが何か特殊な手間をかけたり,特殊なモノを加えているように思えますが,

実際には逆の場合が大半です。

高いモノが,普通の(本来の)作り方をしたもので,安いモノが特殊な加工をしているようです。

醤油で言えば,大豆を本当に発酵させているのが高いもので,

少し安くなると原材料にアルコールが加わり(発酵させる代わりに,アルコールを補って済ませる)

さらに安くなると,原材料から大豆が消えて,脱脂加工大豆等が原料になります。

つまり,手間暇かかるところを,うまいこと工夫して,ほぼ同じようなものを安く作ることができているわけです。

醤油以外の加工食品も,だいたい似たところでしょう。

実際,しっかり味わえば違うのですが,安いモノでも十分な場合がたくさんあり,

たとえ偽物だとしても,安いモノの存在価値は高いと思います。

さて,弁護士仕事の料金は,やはり払う側の気持ちからすると,高くなります。

他方で,弁護士側からすると,1件1件の事件は,すごく手間暇がかかりますので,

なかなか,現在の相場的な料金から,下げていくのは難しいのが現状です。

食品添加物のように,大幅に手間が節約できつつ,ほぼ同じコトができればよいのですが,

今のところは,IT機器の発達でもそうもいっていないようです。

当事務所では,食品添加物のように画期的な方法がないかは常にアンテナを張りながら,

当面はホンモノの仕事をしっかりやるよう,頑張っていきます。

祝!石川100勝(偉大なへっちゃら精神)

土曜日, 5月 14th, 2011
本日、ヤクルトの石川が通算100勝目をあげました。

いつもテレビ観戦ですが、今日は珍しく球場で観戦しました。

だいたい、年1回球場に行きますが、毎年負け試合でした。

子供と一緒に観戦した初勝利という点でも記念すべき勝利です。

今まで観戦した3度の中で、2度は、7回まで1対0で勝っていたのに

結局逆転され、1対2で負けるパターンでした。

今日も、7回まで1対0で勝っていて、嫌な予感がしましたが、

8回にバレンティンがホームランを打って、ジンクスを破ってくれました。

さて、石川ですが、100勝の秘訣は、

多少打たれても気にしない、へっちゃら精神にあると思います。

あまり速くないストレートと、遅い変化球を

狙い打たれることは気にせず、ストライクゾーンに投げ込んできます。

でも、しっかり緩急をつけて、コントロールを意識していれば、

打たれるときは打たれますが、

長いシーズンで、平均して6回で3失点くらい

(悪いときは、6回で4,5失点、よいときで、6回1,2失点)

のピッチングになります。

あとは、怪我をせずに、ローテーションを守り続ければ、

1年通すと、10勝10敗防御率4.50くらいの成績になります。

ここ何年間は、もう少しよくなりましたが、2年目から5年目くらいはだいたいそんな感じでした。

とにかく石川が先発する試合は、試合が壊れることはない。また、故障も少ないのでローテーションは維持してくれる。

そういう意味で、とても、よくやってくれているピッチャーです。

ただ、ローテーションの3番手4番手ならこれで十二分の能力ですが、エースというには、ちょっと物足りないことも確かです。

石川がエースと呼ばれてしまう点で、ヤクルトの投手陣の弱さがあったと思います。

もちろん、これは石川の問題ではありません。石川は、もっている素質の中で最大限のものを発揮し、さらにブラッシュアップしていっていると思います。

そして、この余分な欲がなく、完璧に抑えることを目指さずに(つまりエースらしくなろうとしない)、打たれたときは打たれたときと割り切って、投球スタイルを変えない強さが、石川の真骨頂です。

特に、昨年のように開幕から長期間勝てなくても、自分のスタイルを維持し、最終的にはよい成績を上げる強さはたいしたものです。

ここら辺は、以前に書いた高津に通じるものがあります。

たくさん試合をするプロ野球では、大数の法則が働くので、確率が大事です。

そこで、ひどい打たれ方をすることを気にせず、長期的に確率のよいピッチングスタイルを守り続けることで、大成するということが可能になります。

肉体的に恵まれているとはいえない石川の、へっちゃら精神。

今後も、この調子でがんばってもらいたいものです。

ネクタイ(不合理の合理性)

金曜日, 5月 13th, 2011
今年は,震災の影響もあって,クールビズが大いに進みそうです。

でも,そもそもネクタイのように,何の役にも立たないものを

何故付けるのでしょうか?

合理的に考えれば,夏の節電以外にも,朝,余分な時間がかかるし,購入にも余分なコストがかかるし,

ネクタイをつけるという行動に合理性はないように思えます。

でも,多分,この不合理な行動を守らせるということに合理性があるのだと思います。

世の中の常識やルールには不合理なものが沢山あります。

でも,人はそれを暗黙のうちに,守っています。

それを不合理だとかいって破ったり,ケチをつけたりしない人を常識人と言ったりします。

つまり,ネクタイを付けることは,奇抜な行動をしない常識人であるという記号として意味を持ちます。

これは,仮に奇抜な形のネクタイをしていたり,ネクタイが裏返しになっていたりする人がいたら,

「この人は変な人なのではないか?近づかないでおこう」と考えることができるとうことです。

奇抜なネクタイや裏返しのネクタイが趣味にしろ,身だしなみを整える能力がないことによるにしろ,

あまりかかわらない方がよい人物をあぶり出すことができるわけです。

これは,ネクタイに限らず,スーツやワイシャツと一体になった身だしなみ一般がこのような機能を果たします。

激しい寝癖がそのままだったり,やたら汚いスーツだったり,または,ちょっとガラが悪そうだったり,そういう人に目印が付くわけです。

そして,そのためには,守ることに合理性がなく,かつ,普通の人であれば大した手間ではないが,

普通でない人にとっては,逆らってみたくなったり,守るのが困難だったりする,社会的なルールを決めるのが合理的です。

そんなわけで,一見,不合理なネクタイ着用の習慣は,社会的に合理性があるものと思われます。

ですから,クールビズが普及するためには,単に,簡単な格好を普及させるだけでは駄目で,

ネクタイに代わる,ちょっと不合理でちょっと面倒な身だしなみのルールを別に用意する必要があるのではないかと思います。

かな入力の合理性

木曜日, 5月 12th, 2011
パソコンのキーボードの上にはアルファベット以外にひらがなも書いてありますが,

アルファベットを利用したローマ字入力をしている方が大半かと思います。

私も,弁護士登録以前からローマ字入力をしています。

ただ,弁護士登録1,2年目くらいのころ,

「ひとつのひらがなを,ひとおしで入力できる,かな入力の方が合理的なのではないか」

と考え,1年ほど,かな入力をしていました。

というのは,弁護士仕事は文書を書く仕事が多いので,1割でも入力スピードが速くなれば,

今後の弁護士人生において節約できる時間は,かなりの量になるかも,と考えたからです。

初めは,慣れませんでしたが,だんだん慣れてきて,それが普通になりました。

でも,結局,ローマ字入力に戻しました。

あまり入力速度が変わらないことが分かってきたからです。

意外に濁点が多いため,キーを打つ数が変わらないこともありますが,

それでも多少は,キーを打つ数は少ない気がします。

ただ,やはりキーボードを打つのにはリズムがあります。

その結果,

ローマ字入力だと,カタカタカーカタカーカタカタというリズムですが

(あいうえおだと1回なので,カー,それ以外は子音+母音なのでカタ)

かな入力だと,カーカーカタカーカタカーカーカタというリズムになるだけで

(濁音だと二回押さないとならないのでカタ,それ以外はカー)

打つ回数は変われど,ひと文字あたり,カーでもカタでも同じ時間を使うので

多少,カーが多くても,結局スピードは変わらないようなのです。

さらに,ポジションが不合理で,打ち間違う可能性が高いことが判明しました。

不器用なはずの小指の守備範囲がひろいのです。

人差し指のように器用な指の守備範囲が広い分には何とかなりますが,

ピアノやギターの訓練を受けていて小指も器用な人ならともかく,

そうでない私にとっては,小指は適度にミスをしてくれます。

また,諸々の道具を利用する上で,ローマ字入力のみ対応のものがチラホラありましたので,

汎用性の点でも,かな入力を続けることに合理性がないように思えました。

そんなことで,ローマ字入力に戻していますが,より合理的な入力が開発されたら,また挑戦してみようと思います。