五十嵐亮太~開き直りが常識を破る~
今、アメリカで野球をしている五十嵐亮太選手は、以前はヤクルトにいました。
デビュー後、中継ぎピッチャーとして頭角を現します。
石井弘寿とともに剛速球の中継ぎコンビ、ロケットボーイズなんて言われたこともありました。
五十嵐の直球のスピードは当時のプロ野球ナンバーワンでしたが、石井に比べると、安定感はいまひとつでした。
その理由は、変化球を投げる投球フォームと直球を投げる投球フォームが違うため、打者にどちらが来るかわかってしまうからです。
五十嵐自身もなんとなく変化球に自信がなさそうで、苦しそうに投げていることが多かった気がします。
そんな2003年シーズン終了後、抑えのエースの高津がメジャーに行きます。
そうすると、2004年の抑えのエースは、五十嵐か石井のどちらかがすることになります。
順当にいくと、石井が抑えのエースで、その予定でした。
ところが、石井が故障してしまいます。
そんなわけで、変化球を上手に投げられない五十嵐が抑えのエースになります。
いくら直球が速いとはいえ、直球だけではプロでは通用しないなんていうのは当たり前のことです。
でも、いままでの不安定なピッチングでは、抑えのエースとしては通用しません。
ここで、五十嵐は開き直ります。
ほとんど直球だけ、投げ続けました。
10球に1球くらい変化球も投げますが、明らかなボール球等、やる気のない球です。
その結果、なんとかなってしまいました。
さすがに、打者もプロですから、空振りはなかなかしません。
でも、開き直って投げてくる五十嵐の直球は、分かっていても、ヒットはなかなか打てません。
ファールになって、そのうち追い込まれたり、凡打になってしまったりで、何とか抑えのエースの役割を果たします。
そして得意な直球だけ投げていればよいという確信は、五十嵐の態度に自信をあたえ、直球は勢いを増していきます。
シーズン終わってみると、37セーブをあげてセーブ王のタイトルをとりました。
開き直ることによって、直球だけでは通用するわけがないとう常識を破って、直球一本やりでタイトルまで取ってしまったのです。
その後、故障をへて、渡米直前には、きっちり変化球も投げられるピッチャーになりましたが、2004年の五十嵐亮太はとても印象に残りました。
デビュー後、中継ぎピッチャーとして頭角を現します。
石井弘寿とともに剛速球の中継ぎコンビ、ロケットボーイズなんて言われたこともありました。
五十嵐の直球のスピードは当時のプロ野球ナンバーワンでしたが、石井に比べると、安定感はいまひとつでした。
その理由は、変化球を投げる投球フォームと直球を投げる投球フォームが違うため、打者にどちらが来るかわかってしまうからです。
五十嵐自身もなんとなく変化球に自信がなさそうで、苦しそうに投げていることが多かった気がします。
そんな2003年シーズン終了後、抑えのエースの高津がメジャーに行きます。
そうすると、2004年の抑えのエースは、五十嵐か石井のどちらかがすることになります。
順当にいくと、石井が抑えのエースで、その予定でした。
ところが、石井が故障してしまいます。
そんなわけで、変化球を上手に投げられない五十嵐が抑えのエースになります。
いくら直球が速いとはいえ、直球だけではプロでは通用しないなんていうのは当たり前のことです。
でも、いままでの不安定なピッチングでは、抑えのエースとしては通用しません。
ここで、五十嵐は開き直ります。
ほとんど直球だけ、投げ続けました。
10球に1球くらい変化球も投げますが、明らかなボール球等、やる気のない球です。
その結果、なんとかなってしまいました。
さすがに、打者もプロですから、空振りはなかなかしません。
でも、開き直って投げてくる五十嵐の直球は、分かっていても、ヒットはなかなか打てません。
ファールになって、そのうち追い込まれたり、凡打になってしまったりで、何とか抑えのエースの役割を果たします。
そして得意な直球だけ投げていればよいという確信は、五十嵐の態度に自信をあたえ、直球は勢いを増していきます。
シーズン終わってみると、37セーブをあげてセーブ王のタイトルをとりました。
開き直ることによって、直球だけでは通用するわけがないとう常識を破って、直球一本やりでタイトルまで取ってしまったのです。
その後、故障をへて、渡米直前には、きっちり変化球も投げられるピッチャーになりましたが、2004年の五十嵐亮太はとても印象に残りました。