久々の登山

6月 30th, 2025

先日、久々の(おそらく20年くらいぶり)登山をしました。
高校から大学にかけてはよく登っていたのですが、なんとなく飽きてきて登らなくなりました。
時間ができてからも、若いときの自分を追いかけるようなことより新しいことをしたくて、結局山には登ってませんでした。



今回、もろもろ丁度よい誘いがあったので、久々に登ってみた次第です。
途中で嫌になってきて「あー、これがあって飽きたんだな」なんて感覚になるかなと思ったのですが、そういうことはなく、全体に楽しめました。
体力面では、最近たまにランニングしているのが効いたようです。



若い頃のつもりで体がついていかず転んで怪我をするというパターンは避けたいところなので、無理をしないよう、かなり慎重に歩いていました。
ところが他の面々は、それなり最近もバリバリ登山していて、ハイペースでどんどん他の登山者を抜いていきます。昔は、下山時に走り気味のハイペースだと顰蹙を買って注意されたりしかねなかったのですが、今はトレイルランニングがあるせいか、下りでハイペースで進むことにも許容性があるようです。



ということで、終わってみるとひたすら他の登山者を抜くハイペースでした。特に転びそうになることもなく。
オフロードバイクは若い頃からやっている人にかなわない感じですが、登山は若い頃ににやっていた何かが効いているようです。まあ、レースで遅くて、競争でない登山で速くてもしょうがないのですが。



AIでどうなる

5月 26th, 2025

ここ半年かそこらでのAIの進化には驚くばかりです。
とりあえず、「様々なことが便利にできる」ということを感じますが、社会全体、特に人間の仕事に対する影響は、すごいことになりそうです。



まずは映画・ドラマ的なもの。AIが作ってくれますので、俳優も映画セットもカメラ担当も何もいりません。正直、日本の映画・ドラマは同じ俳優ばかりでてくるところがウンザリなので、同じ考えをもつ人にとってはAI作成のほうがむしろ好ましいかもしれません。
当面は、シナリオを作る部分は人間の仕事として残るかなと思いますが、AIが人間が作るより魅力的なシナリオを作るのも時間の問題でしょう。



同じくエンターテイメント的なものでいえば、ゲームの作成もほぼAIが作ってくれる段階ですので、ゲーム作成のプログラム、映像作成的な仕事もほとんど不要になるでしょう。



ゲームに限らずプログラム作成の仕事については、全体を管理する人以外はほとんど人ではいらなくなると思われます。このような仕事をしている人はたくさんいると思うのでかなり多くの人の仕事がなくなると思います。



また現在のチャット的な対話能力、音声構成能力からすれば、電話応対・顧客対応をAIがするのも時間の問題と思われます。
結局のところ、デスクワークの大半は、人がやる必要がなくなる、人のする仕事がなくなる、ということなのだろうと思います。



この状況は10年先とかではなく、数年先という可能性もあるのではないかと思います。



運転の類も自動運転という先が見えているし、介護的な仕事もロボットという未来はありますが、この手のことは機械のメンテナンスや運用コスト諸々があるので、人間がやったほうが安いということで、デスクワークに比べると仕事が残る可能性もあるのかなと思います。



そんな状況で世の中がどうなるのか、一部の守られた仕事の人以外は一斉に失業するのか、うまいこと肉体労働的なところをワークシェアしながら、AIに仕事をまかせて、大半の人が1日数時間働けば暮らしていけるような社会になるのか。それとは全く違う展開になるのか。



なんとか動きについていきながら、乗り越えていきたいと思います。

インドの哲学

4月 30th, 2025

なんとなく興味が出てきてインドの古典を読んでいます。



私が大学にいたころ、文学部の哲学系はいくつかの学科(専修課程と呼ばれていたような気もする)に分かれていました。



哲学(西洋哲学をやる)、中国哲学、インド哲学、倫理学(ここは日本と西洋をやる)



哲学といえば西洋の哲学をイメージするので西洋哲学は当然あります。また、日本の伝統からして中国哲学もあるでしょう。
ただインドについては、なんだかマニアックな感じがして、「わざわざ西洋哲学や中国哲学とともに並べるようなものなのかなあ」と思っていました。古代仏教の研究でもしているのだろうか、という感じであまり私も興味がありませんでした。



とはいえ、西洋哲学にふれているとニーチェだったりショーペンハウエルだったりが古代インド哲学に強い影響を受けているなんて話も出てきます。でも、キリスト教文化圏からしたら輪廻転生的な発想は示唆に富むのだろうなという程度の認識でした。



実際に読み出してみて驚くのは、近代以降の大陸系の西洋哲学の関心の類似性です。
インド哲学で強い関心の対象となる本当の自己とでもいうものは、デカルトのコギトやライプニッツのモナドを思わせます。また、そのあたりからスタートして自己以外の世界との関連性を考えていくあたりは現象学やハイデガーあたりの構成を思い出させます。



プラトン・アリストテレスあたりを中心に様々なことを独特の論理構成で分析していった古代ギリシャ哲学、形而上学的なあたりを徹底的に避けながら実学としての完成度を目指した古代中国哲学とは違う、独自の世界です。いまさらながら、インド哲学の学科があったのもうなづける次第です。



山火事

3月 31st, 2025

最近は、国内ニュースでも国際ニュースでも山火事の報道が多くなっているようです。
私も、山小屋があるので人ごとではありません。



異常気象という観点で報道されることも多くあります。
でも、そもそも山火事は自然環境において、起こるべきことです。一定の間隔で山火事が発生することを前提になっています。山火事をきっかけに発芽する種があり、山火事を待っているのです。
ところが山火事は人間にとっては困るので、山火事が発生しないように色々と工夫をします。つまり、山火事を発生しないようにしていることが自然破壊といえます。



多くの自然破壊云々の話は、変化を嫌うことにあります。変化が発生すると、人間に営みにおいて多くの損害が発生してしまうからです。山が燃えれば、せっかく植えた木がだいなしになるし、家も燃えてしまいます。海岸線が変われば、様々なものが海に沈みます。



地球が温暖化すれば、ある場所は使い物にならなくなるが、別のどうにもならない場所が有効活用できるようになります。それでは、前者に利害を持つ人は困るということです。
でも、一度、温暖化が進んだ上で、核融合の実用化成功等で莫大なエネルギーを手に入れて、気候を元に戻すことができるとなったら、それはそれで、変化が生じて困る人が出てくるわけです。



自然現象について、人災という観点が発生しだすと、色々とややこしくなるということだろうと思います。

知略の文化的評価

2月 19th, 2025

海外ドラマの『ヴァイキング 〜海の覇者たち〜』とか『ゲーム・オブ・スローンズ』では戦争シーンが多くあります。でも、日本人の感覚からすると違和感があります。
いわゆる作戦というか知略というものがないのです。
日本的な歴史ドラマの戦闘では、軍の指揮官自体だったり、その横にいる誰かだったりが知略を働かせて、その成否で勝敗が決るという筋書きが通常です。「卑怯者!」というセリフは、基本的に負け犬の遠吠えの位置づけです。



ところが上記のドラマではそういう気配がありません。見張りもいないようで、突然、予想外の大軍がどこからか現れて勝敗が決するという場面も複数ありました。



あまりに原始的で野蛮な感じもして、そんなもんなんだなあ、と思っていました。



ところが、『インド外交の流儀:先行き不透明な世界に向けた戦略』というインドの外交の重鎮がかいた本で思わぬ意見を目にします。中国は、謀略を駆使する卑怯者を英雄視するような文化であって信用ならない、というような内容です。諸葛孔明あたりでしょうか。
多少、意表をつかれた感じです。日本も中国と同じ文化で、知略を駆使する者は英雄です。



今、マヌ法典という古代インドの様々なルールを定めた本を読んでいます。なかなか面白いのですが、王の生き方を示す部分で
「策略を用いずに行動すべし。決して策略を用いてはならない」
「王は、同等、優勢あるいは劣勢(いずれの敵)によってであれ戦いを挑まれたならば、(中略)、戦闘を避けてはならない」
という感じです。策略は用いず、勝てそうもない戦いも戦うべしということのようです。なるほど、こういう文化的背景なのか、という感じです。
基本的には、このように行動すれば、それで死んでしまったとしても来世で良いことがあり、卑怯なマネをすれば来世でひどいことになるということでなりたっているようです。



こういう文化的背景の人が、『真田丸』なんてみると、卑劣な詐欺師をみているようで、不愉快な感じだったりするのかもしれません。

Woke(ウォーク)

1月 30th, 2025

トランプ大統領が 再選された理由の一つ にウォークに対する反発があるようです。
ウォークという言葉はそれほど馴染みがないのかもしれません。 私も、 この半年ぐらいの間に知った言葉です。
私が『社会改善運動をするヤツラ』と勝手に名付けていたものと、ほとんど同じような感じなんだと思っています。



今まで普通に許されていた行為が、いつのまにか許しがたい行為になって、 さらには犯罪になってしまう(子供の躾とかパワハラとか)。
ウォークな人たちの価値観に反することを言ったら最後、許しがたい 失言として、撤回 や謝罪を迫られる(男女問題とかLGBTとか)。



ウォークな人々は自らをリベラルや民主主義・自由主義の擁護者だと考えているようですが、ウォークでない人々から見ると、彼らはむしろ20世紀の全体主義者の後継者にしか映りません。



日本においても、今後はウォークな人々がカルトとして扱われるようになることが期待されます。しかし、その先に待ち受ける状況がどのようなものになるかは予測がつきません。むしろ、ウォークがはびこっていた時代の方が、はるかにマシだったと感じる可能性すらあるでしょう。



今回は、音声入力とAIによる校正を組み合わせた方式で書いてみました。日本語入力システムの使いづらさを考えると、音声入力の正確さには驚かされます。

今年読んだ本2024

12月 30th, 2024

『疲労とはなにか すべてはウイルスが知っていた』



うつ病の原因は、持続感染しているヘルペスウィルスが脳の特定の部位に行ってしまうこと、というような新説。以前に日経新聞の記事で知って興味を持っていましたが、それを一般向けに詳説した本。
とても面白かったです。



『戦争と交渉の経済学:人はなぜ戦うのか』



1年経って、ほとんど記憶が・・・。



『ブッダという男 ――初期仏典を読みとく』



仏教と言われているものは別として、あらためてブッダの思想とは何なのか押さえたくて読んだ本。
ブッダが大昔のインド人であり、だから現代の価値観から見て素晴らしいかどうか判断することはあまり意味がないことを強調していてなかなかよい。
輪廻を前提とした世界観の中での思想なので、輪廻を真摯に信じていない人にとってはブッダの思想がいかに偉大かを理解するのは難しいということだろうと思います。



『万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~』



文章はわかりにくいし、論理構成の説得力もないけど、結果としてこの1年読んだ本の中ではもっとも刺激的だったかも。
西洋で自由とか平等とか言い出したのはアメリカインディアンのお陰なんていうあたりも、考えたこともなかったので面白い。



『山に生きる人びと 』



昨年オーディブルで聞いて中々面白かった宮本常一の本(まあ、読みにくくて長い『万物の黎明』で消耗したので、気楽に新書程度のものを読みたかったということも大きい)。
日本のことでも、かなり異文化な感じがして面白い。



『中国経済の謎―なぜバブルは弾けないのか? 』



日本のバブルはわざと崩壊させたんだという分析が印象的でした。



『海に生きる人びと』



それなりに面白かったが、山に生きる人々のほうが面白かった。



『ヒンドゥー教 インドの聖と俗 』



ヨガをはじめヒンドゥー教はだいぶ我々の生活にも影響しているけれど、ヒンドゥーという言葉は仏教、キリスト教、イスラム教あたりよりされにエキゾチックな感じもします。経済的生活・家庭的生活をしっかりこなした上で、その後、世捨て人になっていくという流れも、なかなかです。



『運 ドン・キホーテ創業者「最強の遺言」』



経営的なやる気をだすために、久々にこの手の本。でも、エネルギー量がでかすぎて、なんであれ何か成し遂げる人という感じがします。



『マネー・コネクション あなたのビジネスを加速させる「戦略」の見つけ方』



経営的なやる気をだすために、久々にこの手の本。以前もそうだけど、マーケティング系の本は、いまいち刺激が少ない(私の受容体の問題の気もします)。



『イザベラ・バードの旅 『日本奥地紀行』を読む』



この企画はなかなか面白い。イザベラ・バードの『日本奥地紀行』は以前読んでかなり面白かったが、それを、最近ちょこちょこ読んでいる宮本常一が解説するという本。ノミがすごかった話とか、馬が小さかったり、しつけられてなくてあまり役に立ってなかった話等。



『ヒルビリー・エレジー~アメリカの繁栄から取り残された白人たち~ 』



今度のアメリカ副大統領バンス氏が書いた本。私も公立育ちなので、多少似た感覚を味わっていますが、だいぶ強烈です。
今度のアメリカの幹部はイーロン・マスクをはじめ多士済々ですが、副大統領もすごそうです。





オーディブルは、ひたすら『池上彰の世界の見方』シリーズでした。聞き流す上で、知っていることと知らないことの割合がちょうどよいです。東南アジア、中東、インド、中南米、ロシア、イギリスとEU,中国・香港・台湾、ドイツとEUあたりを聞きました。

カッコウと猫

11月 29th, 2024

カッコウという鳥がいます。



カッコウは他の鳥の巣に卵を産み、その鳥にヒナを育てさせることで知られています。テレビ番組で、自分の子どもとは似ても似つかないカッコウのヒナを一生懸命に育てる鳥の姿を見て、不思議に思いました。なぜ違う種類のヒナだと気づかないのか、人間とは違うと感じました。



しかし、実は気づいているけど、思わず育ててしまうのかもしれません。



猫という動物がいます。
猫は人間のそばで暮らし、人間に世話をしてもらいます。SNSで猫の動画を何気なく見ていると、たくさんの猫の動画が出てきます。猫の姿や仕草は、人間が思わず世話をしてあげたくなるような気持ちにさせます。



このような気持ちになるのは、おそらく人間が子どもを育てるために持っている感情によるものだと思われます。しかし、猫は人間の子どもとは似ていないのに、上手にその感情を刺激してきます。



カッコウのヒナは、時には他のヒナを巣から落として、自分だけを育てさせます。



猫も人間の心に影響を与え「猫がいるから子どもはいらない」と思わせる場合は、似たような感じかもしれません。



さて、今回はAIを利用してわかり易い文章にしてもらいました。トゲがなくなりましたが、どんなもんでしょうか?

民法の経済的意味~ノーベル経済学賞にちなんで

10月 28th, 2024

今年のノーベル経済学賞は昨年読んだ
『国家はなぜ衰退するのか 権力・繁栄・貧困の起源』
の著者でした。



で、読んでいるときに思いついた、東アジア地域での日本法の強制が、その後のその地域の発展に寄与したのではないかという考えを敷衍してみます(上記著作では、ナポレオン占領によるフランス法の強制が西欧の発展に寄与したする)。



前近代の権利関係というのは複雑です。
たとえば、ある集落の土地を買おうとします。
その土地の持ち主とだけ話をつければよいとはなかなかいかなさそうです。隣の土地の所有者の同意も必要だとなるかもしれないし、集落の有力者の承諾が必要だというかもしれない、または村の寄り合いでの許可が必要ということかもしれない。神社なりなんなりの宗教的な手続きも必要かもしれない。それはそれで、集落の円滑な運営ということを考えると合理性があるといえます。
1年のうちに一定期間、誰かが集落のだれかが一時利用する権利があるかもしれない。または放浪民の一時的な権利があるかもしれない。
そもそも、その土地の所有者が誰かということを一義的に決めるには、何らかの古文書を信用するしかないかもしれない。



ここに現代の民法を強制適用します。そうすると、登記簿だけみればよいことになります。登記簿に書かれた権利者を所有者と信用しても大方大丈夫だし、登記簿に書かれていない人たちの同意をとる必要はありません。



つまり金があるよそ者が集落の土地を簡単に手に入れることができることなります。
そのようなことを強制された集落は強い怒り生まれても当然でしょう。古くから続いた権利が消滅してしまうこともあるでしょうし、有力者や寄り合いの権威は地に落ちて大事なものが失われたと感じると思います。



でも、経済発展ということを考えると、権利関係の明確化がなされている社会は圧倒的に有利です。前近代的な権利関係のもとでは、工場を立てることすら困難を極めるでしょう。



たとえば、
「一般的に、インドで大規模な用地を取得するリスクは高いとされる。地権者の特定が難しく、取得契約を締結した後に、別の人物や企業が地権者として名乗りを上げて訴訟に発展することも珍しくない。」日経新聞の記事



なんてこととになります。



不動産がとてもわかり易いですが、私法全般について近代法を強制適用することには、相当手程度の経済的メリットがあったものと思います。

マイタウン法律事務所武蔵小杉事務所OPEN

9月 30th, 2024

久々ですが、新規事務所OPENです。



川崎市中原区の武蔵小杉の駅からすぐです。
アクセス



弁護士経験15年程の藤澤弁護士が常駐します。